風人 2014-11-30 06:00:58 |
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『ナニワ・モンスター』で徳衛先生は警察とマスコミのつながりについて違和感を感じることに気づくのは『弾丸』『肖像』で田口先生がマスコミが報道を抑制なり警察にコントロールされていることと重なる。
権力による報道抑制やコントロールのこわさ。
『ナニワ・モンスター』は一種の仮想シミュレーション的な作品ではあるけど中央と地方の対立をミクロからマクロへと描いている本でもある。
徳衛先生は多少は気むずかしい人物ではあるけど歳を重ねている人物でもある。
『極北ラプソディ』の神威島の診療所もまた歳を重ねた人物と後藤先生が営んでるけど時間の積み重ねがある。
年配者の言うことに耳を傾けることは日常において大切。
だけど市井の人からの発信はむずかしい。
『ナニワ・モンスター』ではネットから伝えるという方法は用いられてない。また診療所という舞台であるから町医者は国の権力には逆らえないむきもある。
どう対処すればいいのかで苦悩する。
『ナニワ・モンスター』で海外に渡航経験がない人物が特定のインフルエンザウィルスに通常は感染するわけがない。
おそらく政府の手による者の実行で少年はどこかで感染した。
テレビ出演している本田講師がインフルエンザウィルス『キャメル』が弱毒性なのを語らないのは斑鳩室長たち政府の方針。
現実に報道が偏った内容しか伝えない時はないとはいえない。
これは実にこわい。
情報の精査をする目と耳、思考は必要。
『ナニワ・モンスター』の鎌形のガサ入れはある種の気持ちいい痛快感や爽快感ある。
村雨府知事との対面、交渉を経ての厚労省へとガサ入れする。
しかし府知事のそばにいる彦根先生への警戒。
彦根先生は鎌形をさほど意識してるかはさだかではないが鎌形は意識してるのはストライキの件で警戒感を抱いてた雰囲気。
一介の医者が常識的に考えて府知事と知り合いとは思わない。
高階病院長にしても厚労省のパイプは坂田局長白鳥さん姫宮さんくらいだろうから。
一見、無関係に見える事象が後々人物たちに深く関わるおもしろさ。
インフルエンザウィルス“キャメル”による浪速府の経済封鎖をどう解いていくかを各々の視点。
菊間徳衛先生は一介の町医者だしマスコミとのパイプはほぼないだろうから何も言えないもどかしさと町という存在を通しての町医者の役割。
彦根先生側の立場になるというのは悪い表現をすれば政府にマークされる側になる危うさ。
田口先生はなんだかんだで八神にマークはされたけど彼は白鳥さんがいるから何もできないに等しい。
斑鳩室長にしても田口先生はマークの対象の枠に入れるべきか否かのぎりぎりの範囲ではないだろうか。あくまで田口先生はそれなりに意見を発し誰かに操られ耳を傾けてる。
彦根先生ほど能動的ではないだけに外部からは動きが見えにくいといえる。
『ナニワ・モンスター』の二部にある霞ヶ関の“ルーレット”。
ある意味ひとの作り出した闇。
八神室長を通して書かれ見ることで霞ヶ関の闇の恐ろしさが伝わる。
斑鳩室長のどの作品に出ても不気味な存在感。決して他の意見を耳に貸さないわけでなく暴君でも独裁者でもない人物ではあるが底無し沼のように深い……。
霞ヶ関の裏側の権力のいくつかは彼が持ってると考えるべき。
だけど権力という力を制御している。宇佐美警視なような暴発はしないくらいの適度なコントロール。
権力を制御する理性というのは奥深いものがあるかもしれない。
ふつうの市井の人々は権力に酔うもの。
高階病院長にしてもあくまで大学病院内や坂田局長などの力を借りるだけ。むしろそれが社会的にはほどほどと思う。
斑鳩室長の底が見えないのがこわい。
桜宮市や東城医大に起きたこともほんの一端でありすべてではない。
『ナニワ・モンスター』を斑鳩室長や国、政府の立場側に立てば国を守ることは彼らなりの正義にも読める。
ある意味それは正しいとも思える。
『桜宮サーガ』は立場によって正義や倫理観が変わるおもしろさ。
何を主軸に置き主題にするかということ。
村雨府知事と鎌形検事を警戒する斑鳩室長。ふたりの背後に彦根先生がいることを感じているようにも思える。
文面だけではなかなかそのニュアンスはわからない。
再読やちがう物語を読む度に印象がちがうというのも特徴。
斑鳩室長は個人的には悪役な印象は拭えないですが彼の立場に司法を正義とするおもむきも理解しないではない。
『ナニワ・モンスター』でわかるのはフィクションの物語を通して日本地図がよく見え理解できること。
浪速府のさほど大きくない町からインフルエンザウィルスキャメルに端を発し霞ヶ関官僚の闇、現実の社会においての無血革命と独立にむけての布石、斑鳩室長らは国を守る立場にいること。
だけど彦根先生による地域地方の経済レクチャー。虚実を使いわけながら実行に移す行動力。
首長の先端と末端の繋がり、発想を一歩も二歩ゆく飛躍した発想。
飛躍した発想にやや現実感はないかもしれないが良心的に考えれば時代の先を歩むこと。現実的にはどうしても否定的なニュアンスが混じるのあるからその辺の境はむずかしい。
だけど『ナニワ・モンスター』は改めて読んだら日本地図がちがって見える。
彦根先生のように飛躍した発想した自体は悪くないと思う。
ただ現実にはできるできないの境界線があるのも事実。
日本三分の計にしてもいきなり日本を三つに分けるというの無理からぬこと。
興味深いのは経済的数値に置き換え各地方がどの程度の予算があるかということ。
四国でさえも欧州の国ひとつに匹敵するという事実。
思想と経済的数値が議論の場に値するか否かというのもある。
物語は基本的に相反する者や組織の片側でしか語られないというのもある。
『ナニワ・モンスター』の二部で斑鳩室長と本田先生との会話でも本田先生は斑鳩室長の本意が当初はわからないため思考にすれ違いがある。
日本三分の計にしても白鳥さんは『輝天炎上』で国家転覆を狙う彦根先生と明確に発言している。
この辺もまた思想が絡み合う。
彦根先生の発想自体が飛躍しすぎてる点もまたある。
現実にそれを受け止める土壌や土台の基盤や足固めが必要。
彦根先生のスカラムーシュ(大ボラ吹き)は若さもあるでしょうが固定した組織を持たない浅さもまたある。
田口先生が東城医大に、今中先生が市民病院にのように本人の複雑な気持ちを含めながらこのふたりの人物は組織に身を置いている。それはある意味日常在るべき姿。
彦根先生はその辺が微妙に欠けてる点はあるかもしれない。共感もあるが。
国家か医療かというのも『桜宮サーガ』のテーマのひとつ。
国家が滅んでも医療は滅びない。
『祝祭』から彦根先生が医療庁提言、これは『ナニワ・モンスター』に引き継がれる。
ただしすでに形づくられた霞ヶ関ではなく浪速府に作ろうという構想。
ふと思ったけど浪速府にこだわる必要もないのでは?と思ってしまった。
医療庁という看板がどこにでもあればひとつの旗揚げや意思にならないのかなと思った。たぶんそれでも国や政府に一度はつぶされると思う。
ただ『極北ラプソディ』を読むと離島だからこそ医療が成り立つ側面がある。治療はできないが早期発見ができる。
離島ではないが瀬戸内海を周航するドクターシップ、テレビ番組で知ったけどあのような一面もある。
国や政府から予算おりないとならないところもあるが自治体負担でできなくないところもある。
医療が誰のためにあるかということ。
考えれば考えるほどどん底に落ちそうになるくらいこわい。
読んだことから考える習慣は必要。
『桜宮サーガ』で四国遍路が舞台になる時が来るでしょうか。
『玉村警部補の災難』に収録されている短編がたぶん布石のように思われなくもない。
『アクアマリンの神殿』は読めないままもう五月。
他の本ばかり読んでるせいもある。
『ナニワ・モンスター』はざっと再読したけど村雨府知事、彦根先生を中心に多くの人物が絡む。
日本三分の計は魅力あるし飛躍もした発想ではあるが現実という存在を考えた場合においては無理からぬことかなと思うところもある。
国家が滅びても医療は滅ばないあるいは滅ばせていけないというのが海堂先生のひとつの思想と思う。
田舎もだけど離島は医療が困難。
早期発見し治療するというのが最優先。
『輝天炎上』での患者が亡くなるという描写は死を考えさせられる。
延命処置を望まない患者の生きざま。延命が必ずしもしあわせでないう考え方。
相反する何かは医療に存在するかもしれないが『桜宮サーガ』全般を読んでも明確な答えは得られない。
コールドスリープ(冷凍睡眠)をしてる者とそれを見守る者の気持ち。
どちらが切ないだろうか。
別作品ではあるが佐藤茂氏と福井晴敏氏それぞれの『∀ガンダム』では切なかったり痛切な痛みを味わったり小太刀右京氏の『ガンダムAGE』後半でもゼハートを中心にコールドスリープを行った者たちの生きざま。
『モルフェウスの領域』は恋愛ものとして読めたが『アクアマリンの神殿』の結末は如何なるものか……。
『モルフェウスの領域』で睡眠学習の結果あたまが良くなってるはずなのに平凡に生きたいと願う『アクアマリンの神殿』で高校生となったアツシ少年いやアツシくん。
平凡というのがまたむずかしいと思うんだが。
『田口白鳥シリーズ』の田口先生だって組織の片隅でひっそり生きるはずがなんの因果か高階先生に白羽の矢を当てられ論文ひとつ書いてないのに次期病院長指名。
『領域』ではアツシ少年や如月翔子の協力を経て論文をいくつか書く羽目になったが。
“平凡”という生き方はかんたんなようで意外にむずかしいと思われる。
『極北シリーズ』の今中先生も『ラプソディ』で週一とはいえ大学に戻れるきっかけを世良先生がつくってくれたのに断る始末。
今中先生の場合は市民病院の現場に理解を示す一面があるから現場を大切に思う気持ちはわからなくもない。
だけど論文や研究が滞るのは私なら考えると思う。
しかしさらにそこに“平凡”というひとつの尺なりメーターを置いたらまた考えは異なる可能性はいくらでもある。
『桜宮サーガ』のこのふたりの人物を基準にしても平凡という枠を越えてる一線はあると思う。
極端に表現すればこのふたりの人物と玉村警部補を除けばほぼ平凡と表現できる人物はいないかもしれない(苦笑)。
『モルフェウスの領域』のヒロインのひとり村田桂菜、『アクアマリンの神殿』で哀しく切ない最期を迎えたのは残念。
胸が痛い場面。
いかにふつうに平凡に生きる生きられることがぜいたくなのかわかる一冊。
ひとを死に招くのは癌だけではなくもっと多くの病がある。
医者や看護師は常にそれと向き合わないとならない患者と親しい者も向き合わないとならない。
『桜宮サーガ』シリーズのひとが亡くなる場面は何か大切なものが欠け失われる瞬間に似る。
『アクアマリンの神殿』を読むまでに五ヶ月近くかかったけどこれはすぐに読むなという天からの啓示のように思う。
天がヒロイン村田桂菜との別れを先送りにしてくれた。
『モルフェウスの領域』のままの彼女が胸にいる感じ。
『モルフェウス』と『アクアマリン』との間にミッシングリンクの物語があるかどうかは著者である海堂尊先生の意思によるものだから先がわかるわけなし。
オレンジ病棟のヒロインは『沈黙』といい『神殿』といい何かしらみな主人公に思いを託し亡くなる。
瑞人少年、アツシくんにそれぞれ思いを託してゆく。
『神殿』でアツシくんもなんだかんだで迷い葛藤し答えを見出だそうとするが答えは断片的ながらすべてに近い形でそれはぼやけながら見えてはいるが背けてもいた。
答えはそこにあるけど手を伸ばしにくいもの。
それにしても田口先生と高階先生いつ登場するのかと思っていたら見事に後半出てきた。
田口先生は教授に、高階先生は学長に出世を受け入れる度量を身につけた雰囲気。
アツシくんも何かしらふたりのやり取りに見覚えがあるのはなぜ?
『沈黙』の時代に大人の会話を何かしら聞いてたのか。なぞ?
『アクアマリンの神殿』で実際はふたつ年上なのに学年をやり直して生きている佐々木アツシ。
また本当は冷凍睡眠中の睡眠学習により頭がよく成績も本来いいはずなのに平凡に生きたいと願う。
癌治療のためだったとはいえふつうの人生を歩むには悩みや葛藤が多すぎる。
西野さんや如月翔子さんそして桜宮学園で知り合い友達になった者たちの協力あって人生の道を決めることができる。
桂菜については悲しい顛末だったのは否めないけど物語自体は『モルフェウスの領域』同様に未来へ展望を照らす形となっている。
物語の大半は学生小説、ただし『輝天炎上』が医学生である天馬大吉と冷泉深雪が軸に対してあくまで佐々木アツシくんが桜宮学園という場やクラスメートたちに囲まれて青春を一方で俯瞰しながら体験しあらためて冷凍睡眠中に得られなかった物事を再認識し西野さんがいちおうは親代わりとして彼を監督し指導し叱咤している。
何かを得たら何かを失うのがやや物語の展開上つらいところ。
オレンジ病棟に悲劇のヒロインが召されるのはこれもまた桜宮の結界のひとつなんでしょう。
テトラカンタス症候群。
いわゆる早老症。
身体の歳だけが早まる奇病とされる。
たまに『世界まる見え!』などの番組でも取り上げられてたと思うけど『アクアマリンの神殿』で村田桂菜の病名が明らかになった時に声が出なかった。
さらに『神殿』に登場する北原野麦と同級生だったという過去にも驚愕。
野麦は桂菜の病名を知らされていないことがしあわせなのか不幸なのか。
知らないことがしあわせということもあるからなんとも言えない。
それでもアツシくんにとっては大切な存在だったと思う。
『領域』で桂菜の病気については触れられてはいるものの具体的な症状には記されてなかった。
よくわからないわけだ。
だけど『領域』『神殿』を経てアツシと桂菜が仲がよかったのは救われる。
『アクアマリンの神殿』ではすでに藤原看護師は退職され彼女が持つナースネットは如月翔子が受け継いだんでしょうか。
だけど高階先生は学長として健在。
『神殿』で東城医大の顛末はアツシくんと如月翔子によって語られているので大筋はわかるが細かなところは『領域』同様にぼかされている。
Aiセンターは『肖像』『輝天炎上』で破壊されたがセンター長という地位からは逃れられずに結果的に白鳥さんによる未来科学センターを設けることとなる。
『肖像』→『領域』→『神殿』の田口先生側の物語はなぞ。
顛末だけが先に語られているのみ。
『アクアマリンの神殿』の桂菜の顛末は悲しいこと。
おそらく如月翔子たち現場の看護師あるいは高階先生、そして白鳥さんたち厚労省も尽力はしたが薬の認可が下りなかったんでしょう。
『領域』においても佐々木アツシのために尽力する姿が書かれていて彼は救われた。
だけど桂菜はそれがかなわなかった。
医療の現場で命が失われる描写は表現しづらいものがある。
『輝天炎上』での田口先生と天馬くんの受け取り方のちがいに明確にあらわれている。
『凱旋』の救急現場などでも痛切なくらいにあらわれてたし。
だけど桂菜ちゃんを救うために尽力をした人たちの物語を書いてほしいもの。
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