風人 2014-11-27 06:43:01 |
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初代ガンダムの小説読み直すと、人はひたすらおなじあやまちを繰り返すというのが描写される。
だけど、ニュータイプ故の悲劇。もしアムロみたいに無数に人の怨念や感情、気持ちをニュータイプ的に感知してたら普通ではいられないと思う。
なまじ戦場という場所であるからこそ。
シャアと同調という話は小説版のラストへいくターニングポイントだけど、戦場が理性と感情を狂わす。またアムロの純粋さがシャリア・ブルに裏目に出てあげくにハヤトはシャアに殺される。
そしてアムロ自身もルロイ中尉に狙撃される。
シャリア・ブル、ハヤト、アムロという犠牲をもってシャアとブライト達が共同戦線を取り新たな時代が開かれる。
後のΖガンダムには繋がらない物語。
『SEED』や『destiny』のディアッカとミリアリアの関係は友達以上ではあるけど恋人未満でしょうね。
劇中では触れられてませんがふたりが別れた原因は、ミリアリアが戦場カメラマンになりたいのが別れの原因だったように思う。
ディアッカもまたオーブに少しの間いながら平和を満喫しながらもザフトや軍人としての誇りや存在意義をあらためて自分に問いたかったんじゃないかな。
小説版読むとそんな感じします。互いに離れてても気持ちは(なんとなく)ひとつみたいな(笑み)。
二年で付き合ったり別れたりはいまの若者を反映したところだったかもしれないですね(笑)。
『Destiny』のオーブの大西洋連邦との同盟による海外派兵はいまの日本の姿そのものにおもえて複雑・・・・・・。
オーブの理念が日本の憲法九条に重なってみえる。そのときリアルに日本人の心情がどうなるか。
年配の大人たちが危惧するのなんとなくわかりますが、若い世代はシン・アスカみたいに複雑にとらわれるか感情的になるか、無関心を装うかでしょう。
私個人も『Destiny』の小説読んでシンの気持ちに一部は共感してしまう。理念を曲げて国を災厄に招かないのか、理念を推して国を災厄に招いた方が正しいのか。
“戦争”という行為のなかで問われてることだからいざ考えるとむずかしい。
『ガンダム 第08MS小隊』の小説を読むと『闘将ダイモス』に被るところもありながらロミオとジュリエットしてますね。
冒頭でシローとアイナが出会いながら地球で再び出会うまでに間がある。
シローはアイナに思いをよせながらアイナもまたシローとの出会いで自らが“生きる”ことを問う。
OVA版はヒロイックに描かれてますが小説版では村のゲリラのキキたちのことを思うとやるせないですね。
まだそこまで読んでないですが、連邦軍が必ずしも“正義の軍隊”ではないという軍隊や軍人の悪辣な一面を非情に書かれてるのはやるせない。
展開はOVAに準拠しながら小説は独自に展開してゆくのが小説版の魅力。
『ガンダム 第08MS小隊』の小説読むと失われたゲリラの娘、キキの存在が痛ましく涙でる。
OVA版では健在だけど、小説版では連邦兵士に犯されてしまい自殺を図る。
一年戦争時の連邦とジオンでは連邦の兵士はいくら戦功をあげても士官学校をでてない限りは大尉止まりという連邦の体質もあり士気が上がらないという一面もあり連邦兵士の素行は悪かったという。逆にジオンの方は地球に侵攻してきたという立場なのにたとえ地域や地方を制圧下においても基本的に非人道的なことはしてないという。
もともとジオン側が徹底した教育を兵士たちに課してたのもあるらしい。
『第08MS小隊』の小説でもコジマ大隊は不良や落ちこぼれ的な集まりであってもその辺の素行は守られてた。だけど他の隊はちがったことで事実が作品内のシローや読者に告げられる。
連邦軍や連邦政府が腐敗してるのは宇宙世紀シリーズではたびたび語られてる。
『ガンダム0080 ポケットの中の戦争』、なんだかんだで“ニュータイプを書かないガンダム作品1号”ですね(当時のSDガンダムアニメはまた除くとして)。
OVA版は高山文彦監督の手により少年アルを通じて子供が憧れる戦争ゴッコが実は悲劇を生む戦争だという真実が告げられる。高山監督の手堅い演出もあったと思いますが。
この作品があったおかげでOVA、ゲーム、漫画、小説などに宇宙世紀作品は横に広がったところある。
ウィキペディアによるとバーニィのザク改がクリスのアレックスに勝てたのはほとんど“運”だったみたいです。
だけど、互いに機体のパイロットが誰かを知らないまま戦う悲劇は避けられない。スパロボでは和解してますけど(苦笑)。
初期OVA版宇宙世紀ガンダムの『0080』『0083』『第08MS小隊』の小説を読むとジオン側の方に物語ある感じします。
『0080』はバーニィとサイクロプス隊の猛者たち、『0083』はガトー、カリウス、シーマ、そしてデラーズなどに、『第08MS小隊』はギニアスとアイナのサハリン兄妹やノリスたちというように。
もちろん初代ガンダムでもシャアやザビ家たちの描写や演出もありましたが。
初期OVAはそれぞれの戦中戦後のジオン軍人たちの生きざまを描いてる(書いてる)感じしますね。近年の作品は見てないのでわかりませんが、ジオン軍人たちには言い方はよくないかもしれませんが旧日本軍人みたいな哀愁があるかもしれません。
負けるとわかっていても戦う漢(おとこ)の生きざま、バーニィやガトー、ノリスたちはそんな雰囲気を漂わせます。ギニアスはちょっと狂ってますけど。
OVA版は基本的に“ニュータイプ”を書いてないので監督やスタッフたちが各々の好みや雰囲気が如実ですから。
機会があったら近年のOVA版の小説も手にしたいですね。
むかしのSDガンダムのOVAを見たらなつかしいですね。
私が持ってるのはSDガンダム猛レースと夢のマロン社という二本立て。
前者はチキチキマシーン猛レースのようなレースモノ。後者はSDガンダムキャラがなぜか彼らが宇宙世紀のリアルワールドに行って一年戦争の戦いに巻き込まれるもの(笑)。
夢のマロン社に登場するリアルMSたちは当時の『ガンダム0080』の出渕裕さんデザインがそのまんま流用されて出てきます。
主役はSDキャラたちですがリアルMSたちが彼らを新型か未確認機と認識して襲う(笑)。
ただなかでもみどころのひとつアムロカラー(トリコロール)に塗装されたガンダムNT-1がほんの数カット数秒登場する。
これはファンサービスだったんでしょうか。
SDガンダムのアニメのひとつの特徴にアムロの古谷徹さんやシャアの池田秀一さんなどオリジナルガンダム声優さんを起用してましたね。
初代ガンダムもですけど『0083』や『第08MS小隊』の小説を読むと連邦軍は無能としかいいようないですね。
前線にいる主人公たちは問題もありますが、上層部やジャブローは腐ってたり画策、派閥争いがあったりなんともジオンに限らず不満があるわけだ。
『0083』のコーウェン中将は改革派だったらしいけどガンダムGP02Aを開発してたのを考えたらいちがいに純粋な改革派とも言えない。
たぶんガンダム開発計画で派閥強化を狙った可能性もありますが、デラーズにガンダム2号機を奪われてジャミトフにより失墜させられる。
レビル将軍亡き後の地球連邦軍はろくな人材いない・・・・・・。
『Ζガンダム』のブレックス・フォーラ准将も顔に似合わずけっこう豪胆な気質あったみたいだし(笑)。
デラーズ紛争がもしもなかったらその後のティターンズの発足や勢力拡大はなかったでしょう。
ガンダム開発計画に端を発してコンペイトウの観艦式襲撃、果ては北米穀倉地帯にコロニー落とし。
デラーズ・フリートのしたことはたしかに非人道的。ただシーマやバスク・オムの介入がなかったらよりスムーズだったでしょう。
とことんウラキ達アルビオンクルーは負け戦だったわけですし。
未然に防げた可能性もいくばくかはあったかもしれないけど、“崇高な理念や理想”を掲げる方に女神は味方したかもしれなかった。
北米穀倉地帯にコロニーが落ちたことを含めコーウェン中将ら改革派閥は失脚失墜しそしてジャミトフやバスク達が出てきたことで歴史を変えてしまう・・・・・・。
『ガンダム0083』は『Ζガンダム』に矛盾がないように作られていながら一方でバスクとシーマの画策や謀略があった歴史の皮肉さや裏もある怖さ。
戦いがメインに描かれて(書かれて)ますが裏で政治の謀略があるのは真に怖いもの。
小説の『JIN-仁-』を手に入れてちらっと読んだらドラマとほぼ同じでしたね。
絵柄は漫画版の方がイラストに使われてるから大沢たかおさんのイメージとまるでちがう(笑)。
医療をテーマにしてるのは桜宮サーガと重なりますけど、『JIN-仁-』は現代の医療が過去の時代にどう影響を与えるかかがテーマでもありました。
原作漫画は知りませんけど、小説の後半も機会あれば読みたい。
『ガンダム0083』のエピローグでアナハイムのオサリバン常務を暗殺したのはバスク・オムではないでしょうかね。
作品内のコロニー落としでシーマが裏で手を引いて知ってたのは月側の人間はオサリバン常務とごく一部の人間、連邦側は提督、ジャミトフ、バスクの一派くらい。
おそらくシーマが手を回したことも考えられますが彼女はデラーズ紛争で死んでますからあまり意味はない。
ジャミトフとバスク一派がジオンのシーマとの繋がりを連邦改革派に察知されないために証拠隠滅を計ったんじゃないかな。
飽くまで推測ですけど。
舞台『プルートゥ』凄い。
『鉄腕アトム』の地上最強のロボットを演劇的に舞台にアレンジしながらもアニメに勝るとも劣らない。
アトム役の森山未來さんの熱演はアトムそのまま。
ロボットが嘘をつけないと言いながら相手のために嘘をつくというのは石ノ森さんの漫画版『キカイダー』にも一部通じるところあります。
ロボットと人間の在り方を問うのは永遠のテーマでしょうか。
『Ζガンダム』の小説はある意味、アニメ版と同じで当時の富野さんが鬱積とした感じも大人になって読むとまた伝わりますね。
なかなか思い通りにならない作品作りと『Ζガンダム』内の世界観はなんとなく被る感じします。
カミーユが精神崩壊したラストもそんな感情からでしょうか。
『ΖΖ』の小説は富野さんではなく遠藤明憲さんという方が書いてますが、二巻という短いスタンスながら『ΖΖ』の世界観や人物像は素晴らしいですね。
明るいガンダムというのはややむりはありますが、ジュドーやシャングリラの少年たち、ルー、プルやプルツーたちに未来を託そうとする姿勢は見習うものあります。
ジュドーが木星に行ったのは地球圏の大人たちにも失望があった反面、自らの未来を見つめる大人に近く成長した意味もあったでしょう。
『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』小説 ベルトーチカ・チルドレン読み終えた。
本来、逆襲のシャアというのは『Ζガンダム』時のタイトルだったそうですね。まわりまわって映画や小説の方につけられる。
ベルトーチカチルドレンは基本的に映画の流れに沿いながらも映画ではチェーン・アギですが角川スニーカー版ではΖとΖΖから引き続いてベルトーチカ・イルマがでてきてヒロインを努める。
しかもアムロとの間に子供を身籠ってしまう。これはあとがきなどにあるようにロボットアニメの主人公が父親になっていいのか?という富野さんの提議であり疑問や心情ではなかったでしょうか。
小説や映画でもシャアは「ララァ・スンは私の母になってくれるかもしれない女性だった」と本音を吐露するシャアが大人を演じながら実は大人になりきれなかった思い。
またある意味、敵であるアムロやミライからも純粋と言われる由縁。
たいしてアムロはベルトーチカから赤ん坊ができたと聞かされ自制心を保ったことで死にいく戦い方をしないながらも結局はアクシズから地球を救うためにνガンダムとシャアと共に光に包まれる。
大人になっていこうとしてるのに生死不明になってしまう。
アムロとシャア、どちらも当時の富野さんの心情があらわれていたんでしょう。
『ガイア・ギア』を何年振りかに再読してる最中ですが、主人公アフランシ・シャアと共に書いてた富野さん自身にも迷い迷走みたいなのが見える感じします。
まだ冒頭一、二巻の前半ですがアフランシ・シャア自身は当然シャア・アズナブルとしての自覚はないながら自らを取り巻く環境に戸惑う。
飽くまで深読みですけど、後々の展開ですがアフランシ・シャアがジオンの指導者や傀儡にならなかったのもなんとなく富野さんの迷走した姿勢を見る感じもありますね(苦笑)。
『ガイア・ギア』自体はいまだに『ガンダム』の正史に入ってないのは複雑な版権事情もあると思いますし富野さん自身の考えもあったのでしょう。よくはわかりませんが・・・・・・。
再読してなにか新しい発見あればいいと思います。
間違えた(>_<)。
『ガイア・ギア』を読むとやや性急な感じしますね。シャアの復活を純粋に願う人達。
シャアを敬う人達。
それでいてシャア自身のクローンとされるアフランシ・シャア。
アフランシ自体は純粋な人物として書かれてます。
同時期に書かれたとされる『閃光のハサウェイ』に似た描写はありますが、メタトロンとアフランシ自身の思惑などのちがいに富野さんの心情が取れる感じ。
『ガイア・ギア』を再読するとやはり迷走な感じありますね。
本来はアフランシ・シャアはメタトロンの指導者(傀儡あるいは象徴)になるべきなのに前線に出て一パイロットになってしまう。
たぶんに本来のシャアも『逆襲のシャア』でアムロと決着つけたいがためにネオ・ジオンの総帥より“大佐”でいましたからね(苦笑)。
その辺はアフランシ共にシャアに被る数少ないところかもしれませんね。
『ガイア・ギア』におけるマハの地球逆移民計画もアコギなところもあって意外にセコい(笑)。
ライバルたるウル・ウルリアンは野心家ですけど若さゆえに爪が甘いのは『閃光のハサウェイ』のレーン・エイムにも似る。
『ガイア・ギア』を読むとアフランシ・シャアがかつての“シャア”から離れていってる感じします。
“シャア”とまつりたてあげられるのを拒んでる時点でその片鱗はあったと思いますが・・・・・・。
小説のイラストも物語が進むにしたがいシャアの面影をなくしてゆく。
富野さんの迷いながらも“シャア”から脱却したかった一面もあったのではあるかもしれませんね。
とはいえアフランシ・シャアが上層部からしたら指導者にならなかった面もあり物語の結末からいえば“シャアの復活”は失敗したといえまたアフランシにしたら宇宙より地上にいるべき人だったかもしれません。
『ガイア・ギア』読むと本来はマハとメタトロンは全面戦争をしたかったんじゃないかな。
だけどメタトロン側のアフランシ・シャアが指導者にならなかったことでメタトロン上層部とアフランシの思惑がズレた。
またマハ側もアフランシ達が地上に降りたことで作戦の予定を狂わせたかもしれない。
結局のところ宇宙での全面戦争することで連邦、メタトロン上層部の疲弊を互いに狙ってたと思われるのにそれさえ外れ劇中では局地戦になってしまった。
物語全般からいえば連邦(マハ)もメタトロンも人的にもマン・マシーンも疲弊しただけだったのではないでしょうか。
アフランシ視点では彼の成長物語ですけど。
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