先日、総合病院の内科医から「死にたいと言っている患者さんがいるので診て欲しい」というコンサルトを受けた。『主訴:希死念慮』と書かれた紹介状を持って来院したのは若い女性で、診察してみると、精神疾患の兆候が全然みられない。本人は「内科の先生に精神科を受診するよう言われました。本心から死にたいわけではないです」と当惑気味。リストカットや大量服薬の既往も無く、衝動コントロールもそれほど悪くない。仕事や私生活も順調のようだった。ただし、この女性は「死にたい」がほとんど口癖らしく、ちょっと厭世的で、ちょっと夢見がちな人物ではあるらしかった。
結局、「現時点では治療は不要。何かあるなら再受診を」ということになり、女性はそのまま帰宅した。当人は無駄足だと思っているかもしれないが、この件で内科医を非難するわけにもいかない。最近は、精神科医以外のドクターも精神疾患を見逃さないよう気を遣っているし、それで早期治療につながる例も多い。そういう昨今の治療的文脈のなかで「死にたい」という言葉が出れば、内科医としては相応の取り扱いを考えざるを得ないのだろう、と思った。
さて、ここまでは病院の話。
ここからはインターネットの話。
その一方で、古くからネットカルチャーに親しんだ人にとって、「死にたい」という言葉はちっとも珍しいものではない。2chの「欝だ死のう」のような定型句に限らず、twitter上でも、blog上でも、「死にたい」という文字列はどこにでも転がっている*1。そのなかには、前後の文章からネタだと類推しやすい「死にたい」もあれば、ネタなのか本気なのか分からない「死にたい」もある。どちらにしても、インターネットには「死にたい」という言葉がそれなり溢れている。
こうしたネット上の「死にたい」を、いちいち精神科に紹介していたらどうなるか?全国の精神科外来はすぐパンクしてしまうだろう。そしてネット上の「死にたい」のうち、本心からSOSを発している「死にたい」の割合は、たぶん少ない。ネット上での「死にたい」という表明は、“ネット上だから気楽に書ける”“ネットなら精神科に通報されない”ことを踏まえたうえで、その大半は、カジュアルに行われているように見える。ネットに「死にたい」と書く側も、それを読む側も、それを見たらすぐに通報しなきゃ、という雰囲気で「死にたい」という言葉を取り扱っているわけではない。
このように、病院での「死にたい」とネット上の「死にたい」の間には、社会的文脈という点で大きなギャップが存在しており、両者が同じように扱われることは無い。あるいはオンラインの「死にたい」はオフラインの「死にたい」に比べると大幅に軽い文脈で取り扱われている、とも言える。
ネットの社会的文脈は、変化し続けている
ところで、インターネットを巡る社会的文脈は、黎明期の頃から変わり続けてきたし、今も変わり続けている。
一昔前のインターネットは、今よりはアンダーグラウンドだった。ほんの少しのネットサーフィンで怪しいドラッグの販売サイトにたどり着けてしまう場であり、「これがバレたら一発で失職」な書き込みを容易く見つけられる場でもあった。そういった情況下で西鉄バスジャック事件(2000年)が起こり、“インターネットの闇”的なものが世間を騒がせたりもしていた。
では、現在のインターネットはどうか?
まだまだアングラ臭の漂う場所もあるが、全体としてはインターネットはかなり“日向”になったと思う。社会化された、と言ってもいい。「これがバレたら一発で失職」な書き込みは、もうインターネットでは滅多に見かけない。見かけたとしても、そういうアカウントの寿命はすこぶる短い——なぜならすぐに“炎上”してしまうからだ。犯罪予告的な書き込みも、すぐ通報されてしまう。楽天やDeNAといったネット企業がプロ野球球団を持つようになったあたりも、ネットを巡る社会的文脈の変化を象徴しているように思う。
つまりたった十年かそこらで、インターネットを巡る社会的文脈はかなり変わってしまった。より社会的、よりフォーマルな方向に。
だからといって、ネット上にプライベートな日記を公開できないわけではないし、現に多くの人が日記を書いている。しかしその日記の内容は、以前より、社会的に妥当か否かがチェックされやすくなっている。もし、日記内容に一定レベル以上の社会的逸脱があった場合には、プライベートな日記といえど速やかに“事例化”してしまい、最悪、失職や逮捕といった、強力な社会的制裁に繋がることもある。
こうしたインターネットを巡る文脈変化を踏まえたうえで、もう一度ネット上の「死にたい」について考え直してみよう。果たして、現在の「“カジュアルな”死にたい」が現在の文脈のままいつまで授受されるのか?いつまで「ネットだからいいや」で済ませられるのか?インターネットにおける犯罪予告や脅迫が、速やかに“事例化”して社会的制裁に繋がるようになったのと同じように、インターネットにおける「死にたい」がなんらかの形で“事例化”していく可能性は、私はあると思う。