ぬし 2013-11-14 12:03:52 |
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暦と季節
日本の暦は、平安時代から明治六年までは陰暦(太陰太陽暦)であり、中国の暦をほぼ そのまま使用している。太陰は月の満ち欠け、太陽の運行は次に置くので、一年は十二ヶ月とは 限らず、一年も三百六十五~六日とは限らない。 「伊勢暦」は江戸時代の代表的な暦で、伊勢国宇治や山田で発行され、伊勢神宮の御師 が年末になると神宮のお札と共に配る。折本で二百万部刷られたという。
年号
年号は元禄五年、のように元号と数字をつける。しかし現代のように天皇の一世一元制 ではなく、天皇交代や陰陽道の慣例、災害、或いは理由なく宮中の発表によって元号は 変わるので、その情報伝達の不統一を補うためにも干支による年号の呼び方がある。〔十干〕
甲(こう) 乙(おつ) 丙(へい) 丁(てい) 戊(ぼ) 己(き) 庚(こう) 辛(しん) 壬(じん) 癸(き)
これを「五行」…木(き)火(ひ)土(つち)金(か)水(みず)に二つずつ振り分け、 それぞれ陽の兄(え)、陰の弟(と)に当てて読む。
甲(きの・え) 乙(きの・と) 丙(ひの・え) 丁(ひの・と) 戊(つちの・え)己(つちの・と) 庚(かの・え) 辛(かの・と) 壬(みずの・え)癸(みずの・と)
〔十二支〕……子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥 (ね、うし、とら、う、たつ、み、うま、ひつじ、さる、とり、いぬ、ゐ)
この十干と十二支を組み合わせ甲子(きのえね)乙丑(きのとうし)丙午(ひのえうま) 等、六十種類の「干支」が出来、六十年で一巡すると還暦、本卦がえりといい目出度い ものとした。慶応四年の「戊辰戦争」等は、この干支の音読みからのものである。
月日
陰暦の一ヶ月は、大の月が三十日、小の月が二十九日である。これは満月から満月の間 (朔望月)が、29.53日であることから。また、朔望月×12は354.36日になる。 よってこれらの調整をするために大の月、小の月を定め、三年に一度ほど閏月を設ける。 しかし、各月の大と小、閏月の有無はまちまちであり、その年の暦を見ない限り誰にも わからない。
旧暦の四季
現代と違い、立春の頃に新年が始まるので、暦通りに四季が分かれる。 春……一~三月、夏……四~六月、秋……七~九月、冬……十~十二月 年によって閏月が入ったりしてずれが生じるが、現代では春は三月頃からであるから、 昔の季節のほうが一ヶ月前後早く来る。 四月朔日(一日)と九月朔日が更衣(衣更え)の日と決まっており、一斉に夏物と冬物 に分かれる。
時刻
江戸には時計というものは無きに等しく、市民は大らかに、日の出や日の入りに合わせ、 つまり朝と晩という自然の明るさに従い生活していた。照明代が高価だった為もある。
時間の単位は現代のような二十四時間制ではなく、当時は十二刻制である。 約二時間が一刻、約一時間が半刻、その半分の約三十分が四半刻。 それも日の長さによって変わる不定時法であり、最小単位は四半刻であったが、それで 不便はなかった。何時何分、という細かい単位が出来たのは、暦と同じ明治六年一月一 日からの事である。
十二刻
江戸時代の時刻は十二刻制で、十二支をあて深夜零時を「子の刻」として始まるが、 こちらの呼称は単純明快さに欠ける。 一般には、深夜零時を「夜九ツ」として、九・八・七・六・五・四とし、昼も同様に 正午を「昼九ツ」として九・八・七・六・五・四とし、中間の時刻を「半」とする。 なぜ9からかというと易学で宇宙の根源「陽」を表す数だからであり、それぞれ9の ×2、×3……として一の位のみを呼ぶからという。 下記の現代時刻は昼夜の長さが同じ春分、秋分の日に当てはまるが、日の出と日没の 間をそれぞれ六等分したので、夏は昼の一刻が長く、冬は夜の一刻が長くなる。
0時 ……夜九ツ ……子の刻
1時 ……九ツ半
2時 ……夜八ツ ……丑の刻
3時 ……八ツ半
4時 ……暁七ツ ……寅の刻 ……旅行の朝立ち
5時 ……七ツ半
〔日の出の30分前を明け六ツとする〕
6時 ……明六ツ ……卯の刻 ……起床。町木戸、三十六見附の御門、商店が開く。
7時 ……六ツ半 ……………………職人の出勤
8時 ……朝五ツ ……辰の刻
9時 ……五ツ半
10時 ……昼四ツ ……巳の刻
11時 ……四ツ半
12時 ……昼九ツ ……午の刻
13時 ……九ツ半
14時 ……昼八ツ ……未の刻
15時 ……八ツ半
16時 ……夕七ツ ……申の刻 ……武家の夕食
17時 ……七ツ半 ……………………職人の仕事じまい
〔日没の30分後を暮れ六ツとする〕
18時 ……暮六ツ ……酉の刻 ……三十六見附の御門が閉じる
19時 ……六ツ半
20時 ……宵五ツ ……戌の刻 ……旗本屋敷の門限
21時 ……五ツ半
22時 ……夜四ツ ……亥の刻 ……町木戸が閉じる
23時 ……四ツ半
尺貫法
江戸時代の度量衡(計量の単位)は、明治八年にそれまでの規格を統一して尺貫 法と名づけられたが現在はメートル法に移行している。長さの単位である尺は 前腕の長さ、重さの単位である貫は銭貨千枚の重さ、であり日本の日常生活に 密着しているという点では便利であった。現代でも畳の広さを単位とするため 面積の単位「坪」は広く用いられている。 現代のメートル法の規制下にあっても、間取りを重視する木造建築では江戸の 住宅規格「1間」を基本単位としている。これは柱や梁に木材を使う経験から 生まれたもので、昔の日本人の身長であればほぼ6尺=1間で納まったからと いう合理性に基づく。ちなみに江戸時代を通じての平均身長は男が157.1cm、 女が145.6cmと推定されている。 中世以降に広まった畳の大きさ6尺×3尺が部屋の大きさを決める上での規準 となり、それに付随して襖、障子、箪笥、長持などの家具も畳に釣り合いのよ い数種類の大きさがあればよいことになる。この基本単位をモジュールという が、西洋建築でこの考え方が広まったのはようやく20世紀になってからであり、 江戸期の規格のほうが進んでいたことになる。 土地の測量には現代と同じような三角測量が用いられ、経緯儀で角度の測定と 標識間の実測による三角法で計算する。江戸中期以降は測量器具も進歩し、各 地で測量のやり直しが進んだ。
尺貫法と現代の単位 以下は明治8年に統一された時点での値である。( )内は読み方。
〔長さ〕
・1分=3mm (ぶ)
・1寸=10分=3.03cm (すん)
・1尺=10寸=30.3cm (しゃく)
・1丈=10尺=3.03m (じょう)
〔距離〕
・1尺=30.3cm
・1間=6尺=1.82m (けん)
・1町=60間=109m (ちょう)
・1里=36町=3.93km (り)
〔面積〕
・1尺平方=0.09㎡
・1坪=6尺平方=3.3㎡ (つぼ)…1歩(ぶ)と同じ
・1畝=30坪=99㎡(0.9a) (せ)
・1反=10畝=9.9a (たん)…1段(だん)と同じ
・1町=10反=3000坪=99a (ちょう)
〔重さ〕
・1匁=3.75g (もんめ)
・1斤=160匁=600g (きん)
・1貫=1000匁=3.75kg (かん)
〔容積〕
・1勺=0.018リットル (しゃく)
・1合=10勺=0.18リットル (ごう)
・1升=10合=1.8リットル (しょう)
・1斗=10升=18リットル (と)
・1石=10斗=100升=0.18kl (こく)
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