日向 2013-01-28 18:33:51 |
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星がとても近く感じられた。
笹に肌を切られ、石に足を貫かれても慧音は足を止めようとしない。
振り向けばそこに彼女がいるようで、恐怖の中に火の粉を見る。
右足に竹の根が引っかかった。
身体が大きく前方に振られ、慧音は竹の葉の海に落ちていく。
「ぐっ!」
強かに顔をぶつけた。
身体を支えるべき手は、もう慧音にはない。
炭化し、くすぶる火の跡の見える手首。
今まで目を反らしていた現実を前にして、慧音の顔が歪む。
竹の葉を踏む音が聞こえた。
「……………」
背後に立つ少女を見た。
怒りと悲しみと、ほんの少しの希望。
そんな、思い人に振られた乙女のような顔。
ああ、そうか。本当に私を殺すんだ。
慧音は目の前に迫る送り火を、他人事のように眺めた。
◆ ◆ ◆
私はずっとお前を見ていた。
最初はただ放って置けない子だったはずなのに、世話焼きな性格が出ただけだと思っていたのに、いつの間にかお前のことばかりを考えていた。
寺子屋で授業しているときも、家で暇を潰している時も、ふとお前はどうしているんだろうって思ってしまう自分がいたんだ。
その人のことを思う時間が、とても長くなることが恋ってことだったら、きっと私はお前に恋をしてしまったんだろうな。
妹紅。私はもう自分の気持ちを抑えられそうにない。
私はお前が――
「恥ずかしい奴だな。私って」
オレンジ色の炎を見ながら、囲炉裏の炭を鉄製の菜箸でつつく。
桶で食器を洗う妹紅の背中を見ながら、大きく息を吸った。
「……思いを伝えよう。今日こそ」
やがて、妹紅が戻ってきた。
春とはいえ夜の水は冷たいのか、しきりに両手を擦っている。
「冷たい手を擦るとアカギレになるぞ」
「いや、私はそういうのも平気らしい」
慧音の前に差し出された両手は、剥き立ての卵のようだった。
アカギレ、シモヤケはおろか、シミやホクロすらない。
「……すまない。余計なことを言った」
「いいよ。慧音が私のことを人扱いしてくれている証拠だから」
そう言って妹紅は慧音の隣りに腰かけた。
長い白髪が軽く手にふれた。
「タケノコの煮物美味しかった。慧音は料理が上手だね」
「いや、妹紅も相当なもんだよ。正直意外だった」
「一人暮らしが長いもんでね」
「私もだ。あと、前掛けも似合うんだな」
「なんだそりゃ」
「意外だったよ。いつもの妹紅を見ていると。飾り鎧と太刀が似合いそうな感じだから」
「なにおー。これでも昔はひらひらの着物着込んで、詩とか読んでたんだぞー」
「想像もできないなあ」
「まあ、そうだろうなあ。私も色々変わったから」
どちらとも知れず、二人は自然に口を止め、静寂に身を任せた。
ぱちぱちと火が弾ける音だけを聞き、穏やかな時間を過ごす。
一際大きな音と共に炭が二つに折れた。
「妹紅……」
「なんだ?」
「お前が好きだ」
「……………」
妹紅は振り向かなかった。
ただ、白く染まっていく炭を見つめていた。
「愛してるってこと?」
「ああ。この日のためにどの下着をはいてくるか三日三晩悩んだ」
「なんだそら」
目を細めて妹紅は笑った。
今日一番嬉しそうな顔だった。
気恥ずかしそうにほほを染めながら、妹紅は上目使いに慧音を見る。
「嬉しいよ」
「妹紅……それじゃあ」
その言葉を遮るように、妹紅は慧音の手を取った。
妹紅の手はとても熱かった。
「本当に私のことが好きなのか?」
「本当だ。世界中の誰よりも」
「本当に本当?」
「本当に本当だ」
「なら慧音。私のお願いを聞いてくれるか?」
「なんでも。お前の望みならなんだって聞いてやる。龍の首の珠だって燕の子安貝だって取ってきてみせるさ」
潤んだ瞳が目の前に迫る。
まるで吸い込まれてしまいそうなくらい深い瞳。
妹紅の息がほほにかかる。
お互いの鼓動さえ聞き取れるに決まっていた。
今なら天界でも地底でも一足で飛んでいける。
「じゃあ、慧音。一つだけお願い」
「ああ……」
「慧音。お願い……」
「死んで」
「――――――え」
灼熱が走った。
手首はあっという間に赤に包まれた。
眩むような光が慧音の目を撃つ。
「うわぁああっ!」
「慧音の手、暖かかった。指先からも慧音のどきどきが伝わってきた」
早々に神経が焼き切れたのかもしれない。熱いと感じるのは腕や顔の方で、肝心の手首から先は、逆にぬるま湯の中に入っているような心地良さだった。
だが目の前にあるのは紛れもない炎で、それは指の肉を焼き、骨を露出させ、血と筋肉をどろどろの肉汁にして、橙と赤の光に変えていってしまう。
「慧音はどんなのが良い? 選ばせてあげる。ゆっくりがいいか一気にするのがいいか。私、慧音に合わせるよ」
「――――っ!!」
「どうして」や「なんで」を置き去りにして、慧音は小屋から駆け出していた。
感情よりも先に身体が動いてしまった。
「あ…………」
最後に見えたのは片手を伸ばす妹紅の姿。
その顔は泣き出しそうに歪んでいた。
◆ ◆ ◆
◆ ◆ ◆
「ぐっ! ぐぅ! ぐぅ!!」
がんがん、と竹の幹に両手をぶつける。
脳みその冷静な部分が仕事を始めたのか、無数のアリに食い破られるような痛みがありもしない両手からなだれ込んでくる。
火を消そうというまともな考えですらなく、ただ痛みを消す為だけに両手を竹にぶつけていく。
だが、これはただの炎ではないらしい。
手の先からまったく燃え広がらないが、川に浸しても消えることはなかった。
現実時間で数分、慧音の中で数時間が過ぎた頃、両手は白い灰となって風に流された。
「てが……私のてが……」
もうチョークも握れない。もう何もできない。成績の伸びた子を撫でることも、教科書をめくることも、妹紅に煮物を作ってやることも。
「慧音」
背後から声がした。幽鬼と見まがう白い少女がそこに居た。
ぐらり、と地面の感覚が無くなり、慧音は尻餅をついた。
「慧音。何で逃げるの。慧音は私のことを愛してるって言ったじゃない」
「も、妹紅!」
なんで、と聞こうとした。
しかしできなかった。
言ってしまえば、全てが現実として確定してしまう。そんな気がしたから。
「つぅ!」
竹に腕を付けただけで、背骨に杭を打たれたような痛みが走る。
歯を食いしばってそれに耐え、慧音は何とか立ち上がった。
「慧音。辛そうだね。すぐにすませればそんなに痛くならなかったのに」
弾かれたように慧音は走り出した。
焼け焦げた手は一歩を踏み出すたびにずきずきと痛む。
暗い竹林の中でちらちらと輝いているのは、竹林に住む妖精と亡霊だ。
まるで仲間になれと誘うように、ゆらゆらと揺れている。
「何の悪い夢だ! これは!!」
脇目を振らず走りながら、慧音は叫んだ。
慧音自身どこに向かっているなどわからなかった。ただ今は逃げ出したかった。
この林を抜ければ、きっと朝日が自分を迎えてくれるはずだ。
何の変わりも無い自分の部屋で目覚めて、顔を洗って、ご飯食べて、一日がまた始まるはずだから。
「ぐっ!」
竹の根に足を取られ、身体が倒れる。
思わず両手で支えようとしてしまったが、あるのは火のくすぶる手首だけ。
地面に顔をぶつけた。
背後に竹の葉を踏む音。
「追いついた」
「……………」
妹紅の顔は、振られた乙女のように儚げだ。
その背に広がる炎の翼は今にも消え入りそう。
「……で………」
口にしたくない言葉。
だが、聞かねばならなかった。
ほほにかかる妹紅の火の粉が、わずかな理性を繋ぎ止める。
何も知らないまま死んでいいのかと囁きかける。
「なんでだ……私は、本当にお前のことを……」
「わかってるよ。冗談じゃ慧音はあんなこと言わないもん」
「……………」
「私だって本気だった」
「じゃあ……、どうして……っ」
慧音は崩れるように座り込んだ。
両手を投げ出し、ぼやけた瞳で、しかししっかりと妹紅を見ていた。
妹紅は意図して軽い口調を作った。
「慧音も私よりも先に死んじゃうんだろう?」
妹紅の手が伸びる。そっと慧音を包み込み、濡れたほほをなぞる。
その感覚に心底ほっとしてしまう自分を、慧音は感じていた。
「なあ慧音。永遠に生きて、一番辛いことって何だと思う?」
慧音は小さく首を振った。
その答えに妹紅は少しだけほほを緩ませる。
「愛する者が先に死ぬこと? 孤独の中で生きること? 違う。違うんだ。最初は私もそれが辛いと思ってた。でも本当は、本当に辛いのは、愛していた者に疎 まれ、恨まれ、呪われることなんだ。『なぜ私は苦しみの中で死んでいくのに、お前はいつまでも若いまま生きていられるんだ』。これ、私を生涯愛するって 言った男の言葉だよ」
力なく妹紅は笑った。
永遠に生きられるはずのなに、どんな傷を負っても生き返るはずなのに、その姿は酷く脆く、触れれば崩れてしまいそう。
「慧音も変わるよ。時間は何もかもを変えてしまう。身体を老いさせ、心を濁らせ、魂を凍らせる。善人であろうと悪人であろうと、妖怪であろうと人間であろ うと、敵であろうと愛する人であろうと」
一度だけ、妹紅は強く瞳を閉じた。
「だから殺すことにした。一番愛してくれる時に殺すことにした。そうすればずっと一緒にいられるから。私を愛したままで居てくれるから」
「妹紅……」
「本当に好きなんだ。愛とか恋とかじゃ足りないくらいに。だからこそ殺さずにはいられない。千年も生きて、何にもならないことはわかっているのに、私はま た誰かを好きになってしまった。私は“変われない”。あの頃の、くそったれな小娘のまま……」
妹紅は慧音を抱きしめた。
強く抱いた。
「絶対忘れない。忘れないよ。私は永遠に慧音のことを忘れない。いつまでも一緒だ」
「……………」
どんっ!
突然の浮遊感に妹紅は間の抜けた顔をした。
両手から激しい痛みが響く。
妹紅の身体は竹の間を抜けて、一本の木に向かう。
風で折れたのか、鋭い枝が伸びていた。
「…………がっ」
悲鳴と共にあふれ出たのは、びっくりするほど鮮やかな赤だった。
見事に心臓を貫かれていた。まるでモズの速贄だ。
呼吸とともに口から鮮血がしぶく。
「げ…え……ね……」
血が絡みついて喉がうまく動かないのだろう。
ひどくしわがれた声で妹紅は慧音を呼んだ。
伸ばしかけた手は途中で止まり、ボロボロと涙が零れ始める。
まるで辱めを受けた少女のように、妹紅は両手で顔を覆った。
「あ、う、あぅわあああ!」
転がるように逃げ出して、転がるように走り出した。
今胸の中にある感情を、後悔や恐怖なんて言葉で言い表したくなかった。
色んな思いがぐちゃぐちゃに混ざり合って、堂々巡りの渦の中で、真っ黒に染まっていく。
「妹紅! 妹紅! 妹紅!!」
口に出るのは、愛する人の名前だけ。
愛していた。
あんな目にあって、死んで欲しいと言われても、慧音は妹紅を愛していた。
深く。深く。
でも。
夢想と現実の間で、生きたいと願ってしまった。
妹紅を殺しても生きたいと思ってしまった。
「うああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
妹紅の顔が蘇る。
嬉しそうな顔、怒った顔、楽しそうな顔。
そして、初めて見た泣き顔。
「――――っ!!」
慧音の身体から重力が失われた。
地面が無いのだと、岩が目の前に迫ってから気がついた。
最初の激突。
慧音の身体は面白いくらいに振り回され、赤黒い染みを岩盤に残した。
人形のように落ちていく。
慧音は三度目の激突で、意識を削ぎ取られた。
朝日に照らされる慧音の顔は、ひどく虚ろだった。
砕けた両手足を投げ出し、岩の間にはさまっている。
妹紅は何も言わず、その身体を抱き上げた。
服を脱がし、濡らした手ぬぐいでその身体を清めていく。
汚れを落とした慧音の姿は、やはり美しかった。
「……ごめん」
血でごわついた髪。零れ落ちる眼球。流れ出す鼻血。
妹紅は慧音と唇を重ねた。
砂利と血の味がした。
ゆっくりと全身に炎を滾らせる。炎は慧音に伝播し、その身体を焼いていく。
慧音の瞳から雫が流れ落ちた。
◆ ◆ ◆
人里を妹紅は歩く。
幽香印の花を物色し、菓子を買い、竹林へと戻っていく。
人気の無い里の外れまで来たとき、背中に重たい衝撃があった。
振り返ると両手を血に染めた少年がいた。
酷く興奮しているのか、荒い息をつきながら妹紅を睨みつけている。
その顔にあるのは憎悪や悲しみではなく、怯えと後悔。
妹紅は何でもない手つきで背中の小刀を抜いた。
「いいか。そんなんじゃ人は殺せない」
「ひっ!」
「これじゃ刃渡りが短すぎる。お父さんに刀でも用意してもらえ。十分な長さがあるなら包丁でもいい。しっかりと両手で持って、腋を締めるんだ。刀と自分が 一体になったつもりになるんだ。刃は横に寝かせる。そうすれば肋骨の間を滑り込む。そして、相手の胸元目指して力いっぱい身体をぶつけるんだ。柄を押し込 むつもりでするんだ。な? 簡単だろう?」
妹紅が血染めの小刀を差し出すと、少年は悲鳴を上げて逃げ出した。
きっともう殺しに来てはくれないだろうな、と妹紅はため息をつく。
竹林の中を歩き、小さな川を越えて、崖下へと飛ぶ。
大きな岩の間に立ち、花と慧音が好きだった酒饅頭を置いて、両手を揃えた。
「っ……」
今更、背中の傷が痛む。
「大丈夫だよ。辛くなんかない。私と慧音はいつまでも一緒だ」
妹紅は立ち上がり、竹林へと戻っていく。
何年後か、何十年後か、きっと妹紅は誰かを好きになってしまう。
愛しくて愛しくて堪らなくなってしまう。
その時、また妹紅は人を殺すだろう。
ただ愛するために。
痛みを重ねながら。
おわり
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