タナトス 2013-01-05 20:06:35 |
通報 |
みなさんは“真理”というものについてどう捉えていますか?
自分以外の人が真理についてどう思っているのか気になっています。
「真理なんて人それぞれ」
「そんなこと考えても答えが出ないので考えていません。」
「真理はいつも一つである。」
など、どういった捉え方でも良いですので教えていただけると嬉しいです。
真理については
「ありのままを受け入れること」「真理は複雑の中の単純さを見出すこと」「感情の分野と感覚の分野またそれ以外で捉えられない事象のくくり」だと僕は思います。
事実、ある状況が起こったときに現実の捉え方は人の今まで積み上げてきた経験的感情とその人のもって生まれた感受性に基づいて判断されることがほとんどだと思います。
感情はわれわれが培った素晴らしい能力であもあり、また諸刃の剣でもあります。
物事が何層にも複雑な内容であるほど人の捉え方は自分の注目しているところに絞られる傾向にあると思います。
質問に応えてくれてありがとうございます。
私の周りには「真理についてはあまり考えた事ないな~。」と答える方が多いので、真理論を聞ける事はとても新鮮でした。
私はクロノス氏の真理論を読んでみて、真理の規則性・深層性・多様性・をバランスよく含んでいるように感じとりました。たいへん興味深かったです。
ありがとうございます。
テーマが与えられていて珍しいのでカキコ。
真理は存在する/しない と 真理は知りうる/知りえない
この二つは分けて考える必要があるかもしれません。
相対論者も、前者の客観的真理については、その存在を認めつつも、個々の人間の認識の仕方の
違いに着目して、「真理はひとそれぞれ」と表現している場合と、前者についても
疑義申し立てをして、本当に真理は複数個あると
(一体、この相対論者はどのようにして真理が複数個あることを発見したのでしょうか?)
主張している場合の二種類があるように思います。
他にも、真理かどうかの判断はつけられないけれども間違いは分かるとする反証主義の立場は
前者は存在するとして、後者は知りえないという立場にあります。
前者について、意見を述べるのは一種の論点先取に落ち込むのでしょうか?
またラジオでも話を伺えれば嬉しいです。
酒氏へ
書き込みありがとうございます。
「論点先取りに落ち込むのか?」という質問についてですが、(質問の解釈が間違っていないとして)今のところ私が答えられる知識範囲を超えていますので答える事はできなさそうです・・・。
なぜならば、循環論法や論点先取りについてまだよく理解しているとは言えないからです。しかし、その点については興味を持っているところではありますので、自分なりに考えを得られた時が来たら答えたいと思います。
真理実在論と呼べそうなものと、認識論と呼べそうなものの区別を指摘されている点はとても興味深かったです。私自身それらを分けて考えることの必要性を感じています。
一方で、私ごとで恐縮なのですが、私は「“知りうるか?”という判断もまた真理観によって判断されるべきもの。」という考えに立ち、今のところは分けずに考えております。
丁寧なレスを頂いて感動しています。ありがとうございます。
ひょっとしたら誤読かもしれませんが、認識論は、自然科学的に人間の探求自体を観察することで
徐々にその性質が明らかになるもの、ではなくて、あたかも数学の、自明の定義から出発して
種々の定理に辿り着くというように真理から敷衍されていくもの、と理解しました。
諸々の学問を対象にした認識論に適用できるかどうかは無学の自分には分からないのですが
倫理的に善く生きるための、自然科学的ではない探求には適用できるように感じられました。
唐突ですが、タナトスさんは、諸学が明らかにする真理の束と、人が「どう生きるか?」と
いう問いに直面して何とか獲得しようとする真理は矢張り同じものと考えますか?
不躾かつ詰まらない問答に付き合っていただいて本当にありがとうございます。
自分自身でもまとまりのない話だと感じていますので、スルーしていただいてもかまいません。
酒氏へ
「問答に付き合って・・・」ということでしたが、むしろこの話しを持ち出したのは私の方ですので反応していただいていることに対して感謝しています。
そして今回の質問内容に関しても興味深いものだと思いましたので真剣に答えたいと思います。
〔酒氏の解釈について〕
私の態度は演繹的な方法論とは若干異なってはいますが、それは些細な差であると思いますので、酒氏の捉えているような解釈でいいと思います。
〔質問について〕
「諸学の真理の束と人生哲学の知は一緒か?」ということについてですが、同じものとそうでないものがあると思います。ただ、同じものと同じでないもの共々、自分自身に適応するために応用する必要があると思っています。
(もちろん学識の無い私のような者には次のような考え方も考慮する必要があると思っています。「人生論に応用できる科学的知とは何か?」「そもそも科学的な視点となにか?」「科学的な視点の権威はどれほどのものか?」等。)
酒氏への応答はどれも無難なものになってしまいましたが、これが現段階で私が行える最善の応答になります。
これは質問になりますが、おそらく酒氏の経験上でも、子供から学者まで多くの人の“人間の行動に対する評価や解釈”を見聞きしてきたことと思います。そういった評価や解釈をする人に対して何か感じたことや思ったことなどありませんか?あれば教えていただけると嬉しいです。
タナトスさんへ
お返事が遅れて申し訳ありませんでした。
「人間の行動に対して評価や解釈をする人をどう感じるか?」とのことですが、
実際のところ、これまでそのことについて考えてきたことはなかったことを
正直に申し上げなければなりません。
今漠然と思い浮かぶ考えは、たとえば、経済学でしたら、個々人を他の人々からの
影響を受けない合理的な判断主体として捉えることが前提となりますし、
文学の方面ですと、逆に個々人の欲望は社会的なものであると示唆するような
アイディアがあります。
…そういった評価や解釈をする、その人に対して感じることは
まず、二つの相反する態度が自分の中にあると思います。
「そんなに簡単に、自分を含めた人間のことが分かってたまるか」と
「そうそう、それが言いたかったんだ」の二つが。
とりあえず、人間の行動に対する評価や解釈は、他との連関の上で意味を成すものだろうなぁ
という当たり障りのない意見です。文章に一貫性を欠いていますが、言いたいのは
そういう解釈をする人間は、人間についての真理を獲得したのである、というよりは、
その解釈から何が導けるのか、その帰結だけに注意を払おうというのが私の立場です。
コメ欄よごしすみません。
トピック検索 |