シンジ 2012-12-30 17:18:57 |
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又一つ、師の心が分かったな。暁と申してもよさそうだ。
しかし、なぞっているのではない。
俺の独解あり
「私達は、孔子を真似していない、孔子になりたいでもない、孔子が求めた人道を我も又求む」
易居楽心
枠にはまらず囚われず拘らず、虚無感を心に含んでいる。
私は思想学や徳学を好むが、過去の読んできた本の文章等の物覚えは、実に曖昧で殆ど正確な憶えがない。論語や易学には、有名な言葉がいっぱいありますが、これらも曖昧です。俺は文字じたいは、実は好きではない。
じゃあ何をしてきたか?
私は真理の追究を好む。その文字には如何なる現実法則を伝えようとしているのか?それがどれだけ大切なのか?を想うのである。
俺は文字を憶えるのではなく、その文字に宿る真理を覚えるのである。
師が謂うのは
「学問は血に巡り骨身に入る」
愚昧の醜さ
男とは何だ?女とは何だ?
この問いに現代は如何なる答を出すだろうか?凡その人は答えられないと思う。
知らずして何故「男なら」や「女だったら」などと言えるのか?彼等は何を考えているのであろう。
男も子供も、立派に育てあげられるのは女性の力である。
女を幸せに出来るのは男の力である。
各々が己の性を自覚しないで生きているから、今は不幸が多い。
男は虚弱、女は薄幸だ
最近の日本は、フェミニズムが旺盛になってか男女差別の批判が大きくなっている。日本の悪習とかいう輩も居やがる。
愚かだ、性別差別の習慣が日本人の偉大さである。
小さき人
秀才、有能者とはいかにも利益利潤の可能性と事実性に富んでいる。大変に華々しい。発展性変化性に富んでいる。
道徳者は、そんな彼等を「小人」と呼ぶ。文字通り「彼等は大したことない」と述べる。
私も又その心を最近悟った。
自ら壁作る
自身の可能性に悠久の「のびしろ」を見出だせるのは「日々三度省す」である。
しかし、その逆は何か?
「勉強をする」という思考は自分の可能性に壁を作っているのである。
「勉強をする」という自分の中にスイッチがあり、「遊ぶ」というスイッチがある。
教科書を持っている時だけが学びの時か?遊ぶ時は気が緩みっぱか?
否、人生の為になる学びの種はそこらじゅうに転がっておる。自分を楽しくさせる学問はある筈である
人生立志
私は生まれた瞬間から駄才人間だった。
今更人の世で教育されて並々の才能を養成するなど、逆に勿体無い。
俺は
究極にださく
究極に駄目どんくさく
究極に馬鹿人間
しかし、夢は世界一でかい
を目指すかね
共感できるとこもあるが
例えば
半陰陽の私は
何を意識して生きればいいのだろう…
あるがままで良いだろうか?
男らしさ、女らしさ とは。
私は思う。
女が家政を治めることは、
決して悪習ではない。
性別による役割分担、
秩序があり素晴らしい。
でも、
女が働くこともまた
悪いことではない。
ただし、
それが自然な人だけが、
そうすれば良いのだ。
一次産業者の男に
専業主婦の妻がある者は少ない。
昔から、
一次産業者の家庭では
夫も妻も働くことが多い。
それが自然で上手くいく。
子どもも育つ。
フィンランドは、
男女同権の思想が強いが
見たところ、それで上手くいっているように思う。
なぜか?
あの国では昔から男も女も
一緒になって、
働いてきたからだ。
それが自然なかたちだから、
上手くいく。肌に馴染む。
ところがどっこい、
自分の適正も見極めず、
「今の時代、女も働かなきゃ」
なんて、他人の言うコトに
惑わされる人が
周囲を巻き込んで不幸になる。
不自然なコトをするからだ。
マリー・キュリーには適正があった。
働くことに向いていた。
だから彼女はあれで良かったし
社会に貢献したと思う。
浅知恵だけど、
どうかな?主さん。
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