シンジ 2012-12-30 17:18:57 |
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情熱は大切と思いつつ現実にそれを見れば不快に思ってしまった。
俺の性は本当に厄介だ。
熱いの結構だが、頭にまで血が上らないぐらいにしてほしいわい
事態対応
社会病の様な大きな問題に直面した時どんな対応をするか?主に二つある。
個々の問題に対面してその個々の問題に対応解決する。簡単に言えば病気の治療。
問題の原因を追及し発生源を絶ち根絶する。簡単に言えば予防法。
病気とは、発生してからでは治療にかなりの手間が掛かる。発生前に予防をすれば治療ほどの手間はかからない。
問題解決は合理的には予防が望ましい。
やっぱり、俺には何かが宿っているよ。俺は古の偉人の生まれ変わりと錯覚してしまうわ。
最近の事、「才能」について激論した。本屋で愛読者の本を一冊取ってパラパラとめくれば、そこに「才」の字の真の意味がのべられていた。凄い偶然だな~。こんな事がしょっちゅうある。
大変スッキリしましたな
私情の最たるもの
俺は人間の感情、「気持ち」というものが憎く感じる事がある。特に「好き」が複雑だ。
しかし、師書より「私」の真理を授かった。「好き」を悟った。好きとはもっとも身近で大きな私情だ。
俺は、大切な運命の女性を大好きには決してならぬ。女を大好きになる男は、女に身を滅ぼす
師講話
老子などの思想学は、若者等にはとっつき難い、人生の苦労や厳しさを体験した人が読みたくなる。幼少から逆境苦境を生きた人は若くても読む事がある。
俺は学校の教育方針に思想学を入れるべし、と思っていたが、俺が間違っておった。
今の時代、当に「平和**の代名詞」にも成りそうな時代である。現実の厳しさとは余りにも程遠い。
今の浮わついた世でその思想学が受け入れられる訳がなかったか。
どうすべきなのやら・・・益々困難だ
師講話から導き出すと?
その学問に親しみ或いはその内容の複数部分は教わるよりも「共感」の感覚が多い。つまり、一部は既に体得しておる。
我が幼少の心は殆ど独りで、誰より楽なのか誰より苦しいのか、比べる物もなく、ただただ我が人生地味でつまらんものと思っていた、「死にたくなる」事も少なくない。自身が思った以上に辛い境遇だったのかもしれん。
師講話
自分で何をやってるのか分からないのだから、他の他人は尚更分かる訳がない。訳の分からない様な人間が本当に偉い人間だ
俺は最強に違いない
ニョロくんの株が急上昇している。実に摩訶不思議、ニョロの柄ではない。
複数人と戯れて、俺のソリタリー性を改めて実感するのであった。うまくいけば偉人になれる人種らしいが、考えものである
危惧すべし
最近はチャットが面白過ぎる。
手が、常に少しの暇を感じるや携帯を握る癖がついてしまった。
過ぎたるは及ばざるが如し。きおつけよう
教とは、国の先祖の遺産
教とは教える・教わるである。教は教わる側ノミが学んでおるのではない。教える側も同時に学んでいるのである。
教科書という物がある。この中身には何が入っているか?ここには過去の人間の多くの知恵と思いが宿っておる。それは数えきれん無数の過去の人。
二千年前に孔子が「時に此れを学び時に此れを習う」から学習が生まれ、多くの後の世の人々に広がった。
その教学は現代の先達者が統合して若輩に継がれていく。
この教とは、現代に生きる人間が過去の人の知恵と思いに繋がりその運命を昇華させるものなのである。教化感化とは自分の運命に過去の人々の心が宿る事である。
「人々の心に残れば逝去してもその人は生きているのである」
つまり「人々の心の中で生きている」は本当なのです。
「人の上と下が繋がる」これが孝の意味である。親孝行とは親(上)と子(下)の思いが近づくと言うことだ。
教の内容は「発展性」を指としている。故に俺曰く「教は孝の表(陽)也」
やるせないサガ(性)
思想学問の中でも、孔孟老荘は特に現実的学問、現実とは重苦しいものだ。読みながら感動関心はするものの、学んでいるだけで肩がこるみたいに頭が硬くなる。
俺の口も自然に重硬いものが混ざっておるのだろうな。俺はよく浮いてしまう。
やはり我は社会の異物だ
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