シンジ 2012-12-30 17:18:57 |
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>>339の匿名の人です。ではお言葉に甘えて、自分も色々と零していきますね
シンジさんの言う通り世間は節操なしで、流行も風潮もコロコロと移り変わりますよね。
私はそれは個人の中にアイデンティティがないからだと思う。コロコロ変わる風潮と流行を追うだけで生きてきた人が増えている気がします、
とか、こんな感じで。また、暇があれば来ます。
最初らへんを改めて読み直してみた。流石は俺・・・中二ポイな。
もっと凡庸でありたい。
凡は全てに通ず、の意味。
全てに通ず→全ての人に→普通の人にも出来る→大したこと無い
が現代の凡庸の意味。
根本の意にありたい
友達が出来ない性格
自分は当にそうだ。
趣味からして超真面目な本と超どうでもいい本を読む。どちらも中途半端だから他人と雑談出来るほどの常識は無く、専門家程の知識はない。
気まぐれに学び気まぐれに遊ぶ。
そのかわりと言うか、遊びながらに何かをきづき学ぶし、学ぶ事に満足感や楽しさがある。
一人でも楽しんでいる。余計に友達を求めなくなるんですね。
悲しい自由
こんな人がいる
「俺には夢があるんだけど、実家を継がなきゃいかんから叶わない。俺に夢の自由はない」
彼は選択の自由が無いと。
しかし、彼は期待されている。家族が宛にし頼りその責任をたくそうとす。それだけ彼は大きな人だ。
個人の権利が強調され親子の間でもそんな風習が減りつつある。「アンタの好きにしな」と。
それは同時に放置放任という事実もある。つまり「どうでもよい」と。
この生き方は、一生を費やせる思いを持った人間にはありがたい。しかし、そんな人間はどれだけいるのだろう?
大多数の人は簡単にいうと「やる事が無い人間」なのである。暇人ですね。
他人の世話をやく、頼られる、だから暇が無い、自由が無い。
自由人とはその逆、世話をしない、頼られない。だからゲームだろうが娯楽だろうが、コレにウツツを抜かしても怒られない自由な生き方。
人間とは社会性を宿す生き物だ。自由人とは社会性本能が飢餓状態になっているのではなかろうか
格差を認めて平等也
格差は平等と対するものと俗に言うそうだ。
だがそれは違う。
仮に
小柄の女が一杯の飯を食っている。その横で大柄の男が飯を三杯食っておる。
コレを格差と解すか?その通りです。ならコレを平等にするにはどうするか?小柄の女に三杯食わすか?大柄の男に一杯しかあげないか。
否!それは平等にあらず、同質・同権というのである。
この男女は、このままで格差差別をして且つ平等なのである。
体格が違うんだから当然食う量は違う。だから男と女の違いや差を理解して各々の在り方を別ける。
然るして女も男も食べ過ぎて苦しまず不足せず二人は食事に満足しているのである。だからこの二人は平等なんだ。二人は満足を共有して平等なのである。
平等は心の内にのみ存在する。
今現在外出中
母に「そこ蛇(ハブ)いないか?」と言われて昔の自分を思い出した。
暇に腐っておった時の事
「片目なり足の一本ぐらい無くなれば、生きる有り難さや感謝に気づけるのかな?」て。
ただそれだけだ
悠久不滅の心
俺は日々学問をしている。誇らしい学問だ。中国四千年というか遥か昔から数多の人々が生きるための術を心を考え模索し実践してきた。数知れぬ人々の努力が子孫に生きる知恵を授けた。
俺はその叡智にあえて光栄である。
論語などもその中の一つ。ただこれの読解はとてつもなく難しい。俺の師の話「私は五歳から論語を読んでいる。二十~三十あたりで論語を分かったつもりだった。しかし、五十になって読んでみれば、私は全然論語を分かってなかったな、と思う。五十も過ぎてやっと論語が分かってきた」
五十年もかけてやっと悟った真理を俺は十五歳で触れた。
その真理や意思を俺は受け継いだんだ。そして思う。師はどんなに偉大でも先の短いジジィだ。俺はまだ先がある、とても永い先だ。今を生きる俺は未来に可能性を多く持っている。偉大な師に勝る俺の誇りだ。
心とは何か?
心が発達した生き物に有って心未発達な生き物には無いもの。
以心伝心というものがある。これは「心と心で伝えあう」と言うものだ。
これはどんな時にやっているか?生まれたての赤子の頃から親子間で始まっている。或いは誕生する前からも始まっている。
心が未発達の昆虫の生態を考えてみる。昆虫は親子という概念を持たない。(例外に持つ種もいる)卵を生んで幼虫が孵化する頃には親は死んでいるからだ。親を頼れない彼等がどう生きるか?彼等は既に知っているのである。生まれた時から遺伝子に刻まれていて、食べ物、住みか、敵までも分かる。
ただし、彼等は遺伝子に忠実だがそれ以外をしない。出来ないのである。
心を持った人間の場合、赤子はその中身は空っぽである。「空っぽ」とは生きる術を知らないということ。虫の様に食べ物も住みかも知らないのである。
どうやって知るかというと親から教わる。何を食べるか?何処に住むか?何が危ないか?全ては親や先輩から伝えられる。これは単純な遺伝子伝達とは違う。心と心である。
心とは「白紙のノート」なのである。人間はこのノートに人生をつづるのである。このつづりが人間の生きる術に成る。コレを運命とも言う
虫は生まれた時、そのノートには字が埋っている。故にそのノートには新しく何かを書くことは出来ない。これは宿命である。
人間は己が運命でつづったノートを子や後輩に伝える。これが以心伝心だ。この積み重ねが人の歴史である。
人を信じない時代
人は法律の規制を厳しくする事で自由権を規制した。それは現代人が人間の本性を信じられなくなった所以である。それは「自由があれば犯罪が起こりやすい」からだ。
しかし、自由とは人間の運命の可能性でもある。同時に人の運命も縛ってしまった。
俺が思うのは、決して運命を縛ってはならないということだ。
犯罪抑止の法は、人間の臆病なり無気力という事実もある。
読書尚有(ドクショショウユウ)
本を通じて古の人の心に触れる、友情を懐く。
今の時代に素晴らしい人間の少なき事無き事や嘆かわしきや。なら遥か昔には確かに存在した、語り継がれる程の大きな人間に触れる。
きっと白い心も黒い心もかき乱れる事だろう。
全ての孤独は優れた人物の運命である
だとさ♪
我が人生の座右の銘にしよう。
東洋人は孤独を愛し孤独苦に絶える優れた人間だ
だとさ♪俺は生粋の東洋人だと思うぜ
上を見る
上を見ると首が疲れる。だから人間はあまり上を見ない。
元気のない人は首が垂れて下を見ている事もある。
だけど上を見ることがある。何かがある時、虫や鳥がいたりした時等ほんの少し。
もっと永く上を見ている事が時々ある。虹をみつけた時だ。極希に出会うこの自然現状には魅了される。この時は首の疲れなど気にしておれん。
人の理想精神もそうなのだろう。
歴史上に存在する偉人・聖人・賢人・善人、彼等が素晴らしいということは皆知っているに違いない。しかし、彼等を知ってても彼等に学び理解しようとする人は少ない。彼等の精神人格が高い所にあるからなのだろう。彼等をただ見ようとすれば首が疲れる訳だ。
彼等を見続けるにはどうすれば良いか?心に虹を見つけた心境の様な感激を抱けば良い。
心移り多い人の世に古今東西不動の真理がある。青が好きな人、赤が好きな人、黄色が好きな人、そんな多様な人が遥か昔から求めてきた。そこにはあらゆる未来の可能性を導く智慧がある。それはまさしく虹色に溢れていることを悟れば、首の疲れなど気にしておれんことだろう。
生きる意味を考える
生きる意味というのはその人物が出来てこないと見出だせない。生まれたての赤子に「お前は何故生まれた?」なんて聞いてもせんなきことよ。
成長経験教養でその人物の格好人相が出来てくる。その時そんな中「自分には何が出来るのか?自分は何がしたいのか?」が出てくる。それが生きる意味には成らないだろうか?
生きる意味を得る資格
成長・経験・教養
生きる意味を得る上での絶対条件と言っても過言ではない。人間はこの三条によって高められる。これが無いと人は無力だ。
この三条を言及してみますと
成長、第一成長期や思春期や成人等で色々な感情が芽生えていく。それが新な人生に繋がる。
経験、生きてけば色々な事をする、又はしなきゃいけない。そんな中で色々な発見がある。自分自身の知らない一面の発見は特に貴重だ。
教養、学問や趣味を通じて心体を養う。それによって人生の可能性を伸ばしていける。
学問は、一寸先は闇の人生に光を見つける事が出来る。未知は人間にとって足元が見えない暗闇と同じ。この闇を消し去る事は大きな進歩力になる。
生きる意味はこの三条をどれだけ成せているかでその内容は左右される
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