しゃべりば 2012-01-24 07:58:06 |
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私自身は「真実の愛」は相互承認がその基礎にあると考えています。
他人の存在が必要なのは、自分自身の人生を自分自身の手でつくりあげていくための条件の一つだからです。自立するために他者が必要というのは、矛盾しているように見えるかもしれません。
ここで、「私なんて誰からも必要とされていない。」というつぶやきを想起してみてください。
そこにあるのは自由を享受できることへの喜びではなくて、自分自身の不確かな存在証明に対しての不安であることが自然に把握できます。
自分自身の能力を十全に発揮するためにも、私を必要としてくれている他者の存在が必要で、その他者もまた、その能力を十全に発揮するために私を必要としてくれていると感じます。
462さんが生き生きと報告してくれたドキュメンタリーの逸話が感動的なのは、
ある意味で相対的な強者となった妻が甲斐甲斐しく、社会的弱者となった夫を見捨てなかったから……
ではなくて、
妻が、お互いがお互いを必要とし合っている点で対等な立場であることを夫に確認し、その上で、
主体的に人生を共に歩んでいく決意を新たにしたから。だと私は確信しています。
(夫は妻を弱者だと感じていて、そうであるからこそ「こんな借金人生に付き合わせない為に」という発想に至ったのだと思います。もし、妻が唯々諾々と夫の支持に従ったら感動は無かったでしょう。指示が無くとも妻にも自主的に逃げるという選択肢があることを当の夫は失念していたのかもしれません。)
歴史で扱った封建制を思い浮かべてみてください。庇護と服従の関係がその基礎にあります。
そういった関係性からは真実の愛が生まれることはないように私自身は思います。
なぜなら、強者である一方が、「あいつは俺無しでは生きていけない弱い存在だ」という予断を持って接し続けることによって、本当にもう一方の存在を弱くしてしまう恐れがあるからです。それは相手の可能性を干からびさせることであって、それが真実の愛の働きとは到底思えません。
相手(彼)の性質の束から華美な点をひとつずつ除去していき、最後に真実の愛が試されるとする見方の要点は、果たして、相手にはそれらの華美な性質をも凌駕する内的な美が備わっているか。という問いかけにあります。ここでは、相手(彼)の性質の束の縮減自体に着目するよりかは、彼女自身の価値観の複数性が試されていることに注意を払うべきだと思います。価値観の深化、豊かさの重要性は投稿者さんも、462さんも繰り返し主張するところです。容姿の美醜や所得の高低はそれらの論を際立たせる舞台装置で、それらが論じられているからといって、外面的、表面的な議論であるという批判は的確ではないかもしれません。(これは私自身への自己批判です。)
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