zeke 2011-10-09 00:33:55 |
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帝国海軍が真珠湾を攻撃する前に
特殊潜行艇が沈められている
奇襲は古来から日本にある戦術だ
伝記では八幡太郎源義経からある
義経は平泉から海を渡ってジンギスカンになったみたいです。
とにかく、先制攻撃した
アメ公が悪い!!
あとアメ公は日曜に休んでるから被害が大きかったんだよ
帝国海軍は月月火水木金金なんだから・・・
こんにちは!
質問したいんですけど・・・
特攻隊って威力・破壊力はどのくらいなんですか?
自分、中三なんでわかりやすくお願いします。
特攻隊は始めはかなり成功しました。
その時のことで言います。
当時は250kg爆弾を搭載して敵艦に体当たりします。
これは駆逐艦に当たった場合は大ダメージとなり、最悪、沈没します。
空母は沈没まではいきませんが、飛行甲板にうまく体当たりできれば飛行機の発着艦が不可能となるでしょう。
しかし、終盤になると空母にたどり着く前に、迎撃機や対空砲火に撃墜されそのまま犬死、みたいなパターンが多かったです。
ん、まあそうですけど・・・
ちなみに、B-29への特別攻撃(特攻)は多々ありました。
聞いた話ですが、陸軍の三式戦闘機「飛燕」がいわゆる「主翼切り」といって、翼をB-29のエンジンや機体にぶつけて撃墜するということがあったらしいです。
もちろん搭乗員は落下傘で脱出します。
本当ですね
もしくは、爆弾を背負って自分ごと爆破ってのもありました。
しかし、多くの兵が戦車にたどり着く前に、随伴歩兵に射殺されていたと思います。
映画でアメリカ軍が火炎放射器使ってますけど、
日本軍が火炎放射器使っている映画を見たことがありません。
そもそも、日本軍は火炎放射器の技術?を持っていたのでしょうか?
たしか持っていたと聞いたことがあります。
しかし、火炎放射機は燃料を大量に使うので、資源の少ない日本軍にとってはあまり有効的ではなかったかと思います。
それに、火炎放射機を使う場面といえば、敵のトーチカにいる機関銃兵を焼き殺すなど、戦争末期ではほとんどが防衛戦だった日本軍にとってはあまり意味はありませんでした。
日本軍、真珠湾攻撃とか勢いよかったぽいけどだんだん「攻め」から「守り」になりましたよね?
いつぐらいからですかね。この戦争は日本が宣戦布告しましたけど、反対する国のお偉いさんは
一人もいなかったのでしょうか?
日本軍のガスマスクってアメリカ軍のより形?デザイン?が少し変というか・・・なんか
不気味、でもアメリカ軍のガスマスクは不気味というよりかっこいいが少し入っているような・・・
そもそも真珠湾攻撃を指揮していた山本五十六連合艦隊司令長官がアメリカとの戦争に反対していました。あんな大国を相手にして勝てるわけがないと思っていたのでしょうね。しかし、周囲の賛成を拒むことができず、そのまま真珠湾攻撃となりました。
「攻め」から「守り」になったときといえば、もちろん「ミッドウェー沖海戦」ですかね。当時、海戦の主力となっていた空母を一気に4隻も失いましたからね。たしか、1942年の6月あたりです。優秀な搭乗員も少なからず失いました。
これのせいで、連合艦隊は積極的な作戦を行うことができなくなり、結果「守り」となってしまいました。
ミッドウェー海戦からですか、そうすると開戦してから
「守り」になるのは結構早い時期だったんですね。
アメリカ軍の進行を見ると日本の南(沖縄方面)から攻めて来てますが、
南から来る意味があったんですかね?
沖縄になんか日本軍にとって重要な施設でもあったんでしょうか?
死神さん
おそらく沖縄へ来た意味は、敵の本土に上陸して、士気を下げ、降伏させるという目的ではないでしょうか。
本土へ上陸すれば、さすがの日本軍も降伏するだろうとアメリカ軍は思ったのではないのでしょうか。
しかし、結局すぐには降伏しませんでしたね。
たぶんこのような理由だと思いますけどね~・・・
二等兵さん
おそらく地下に基地があってもおかしくないと思います。
硫黄島防衛戦をしっていますか?
あの戦闘では、日本軍は地上にでるのではなく、地下に基地を建設し、島じゅうを行き来できる地下道をつくっていました。
地下にずっと隠れていた日本兵達は米軍の艦砲射撃に耐え、上陸してきた米軍兵士に大きな損害を与えました。
おそらく沖縄でも硫黄島でのことと同じようなことをして、敵をたたこうとしたのでは?
メルさん
たぶんそのような考えだったと思います。
しかし、日本軍はどんなに損害を与えようと勢いは変わらなかったし、決して降伏もしませんでした。
米軍の思惑通りにはいかなかったようですね
数々の日本の城がアメ公の空襲により
燃やされています、許さん
広島城、福山城、岡山城、名古屋城と広島城は大本営が
置かれていましたが原爆で吹き飛びました。
姫路城は迷彩に塗装を施し奇跡的にのがれました。
日中戦争時代には八九式中戦車乙型というのを使用していました。
その後の主力戦車は、九七式中戦車、九七式中戦車改、九五式軽戦車くらいですかね~
あとは一式中戦車や、三式中戦車とかもでていたのではないのでしょうか?
いずれにせよ、日本陸軍はとくに戦車の技術が遅れていたので、米軍のM4シャーマン中戦車とまともに戦って勝てる戦車は持っていませんでした。
まあ、ほとんどの戦車が対歩兵用に開発されたものなので無理もありませんがね。
たしかに富獄はすごいですが、あれは設計の段階で終わっているので完成はぜったい無理でしたね。
でも、もし日本の技術がめっちゃ進んでて、開発できていたのなら、航続距離が化け物なみなのであのアメリカをすこし後退させることができたかもしれません。
零式艦上戦闘機は実は量産にはむいてなかったようです。
なのに、日本の財閥たちは零戦を1万機ほど作り上げたようです。
物を作るのが得意っちゃあ得意かもしれません。
自治体津波対策で藤沢、鎌倉はだめみたいですが
わたしの住んでいるところは多少地形的に平気みたいです
実際自然現象ですのでなんともいえませんが
なぜ平気かというと連合軍の相模湾上陸コロネット作戦
計画から意見が出たみたいです。LST等揚陸するのはあるていどの
水深がないとだめみたいですとの事です。
実際、近所に、すでに住んでは居ませんでしたが子供の頃まで、進駐軍の住居があり、
親が言うにわ砂浜で昔演習していたみたいです。
旧日本軍とは関係ありませんですみません。
旧日本海軍の連合艦隊の旗艦であり、ビッグセブンの一員である長門型戦艦“長門”
この艦は、日本最強の戦艦と言っても過言ではないでしょう。
八八艦隊計画の第一号艦。
大艦巨砲主義の塊である艦 それ故に、性能は偽装され、スペック上では、ビッグセブン最強であった。
しかし、大艦巨砲主義は古い構想。
赤城や、同等の41cm砲を装備する予定だった加賀に出番を奪われた。
この艦は、とても数奇な運命を辿ったのです。
同型艦の陸奥は、三式弾が自爆してしまい 轟沈してしまいました。
そして、呉にて装備が外され、原子力爆弾の実験で、二回も原子力爆弾を食らっても轟沈しなかったそうです。
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