用心棒の小娘 2024-10-05 18:32:43 |
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(空気が揺れるように、氷水が足元を浸すように飼い主様の纏う空気は冷たさを増すようで対照的にこちらは身体が熱を持ち始めていく、そういう風に作り替えられているのだから仕方がない、何事も躊躇が一番の痛みに成り得る世界だ。随分と甘く見られたらしい飼い主様のことを心の奥底で嘲る様にくつくつと笑いながらも、じわじわと両手に血が巡るように思考も身体も思うままに動く一線が近付いて──まるで不要なものを路地裏に捨てるかのように、あっさりと取り出されたのは火蓋を落とす道具。片一方はその心臓が二度と動かなくなるまで、もう一方はまだ拷問の余地がある程度に…勿論、命を捨てた方がマシだと思うことになるだろうが。肉の焼き加減のように告げられた注文は制限時間付き、素手でも構わなかったけれど時間が限られているのなら仕方ないと己の欲を正当化して吸い寄せられるように武器を握った後──香炉の置かれたテーブルを踏み、武器に手をかけた男の腕ごと砕くつもりで鈍く光る鈍器を振り下ろす…耳を劈くような叫び声は何度繰り返しても好きではないが、今回ばかりは心地が良かった。なにせ、少なからず飼い主様が認められない程度の“悪質な薬を売ろうとした輩”をこの手で潰せるのだから。寝間着で良かった、汚れても直ぐに捨てられる)
──飼い主様、わたし、七ってあまり得意じゃない。両方十じゃ、だめ?
我儘な猫め。……大層愉快な客へ招待状を送ってくれた恩人に、礼を弾まなければならないだろ。
(腕のひしゃげる致命の音と聞くに絶えない野太い悲鳴、床面を汚す鮮血の赤。それら全ての中心に立ちながら、無垢な子猫のように此方を伺う少女へ溜息と共に紫煙を上らせる。はたして何処から仕入れた情報か、凡そ正確な伝達が為されていない事だけは確実な、この裏路地にひっそりと息づく店の存在を漏らした輩。見るからに低劣な新興組織の方はともかくとして、そちらを確実に潰しておかなければ第二第三の闖入者を招く事は必至だろう。時は金にも値する、かような不調法者に拘らった分の賃金はしっかり徴収しなければ。当の客人はといえば、何が起こったか分からないと苦悶に見開く瞳が如実に語っている男とは別の、比較的軽傷の二人目が怒号と共に懐へ手を入れ、そこからすらりと覗く銃身は無骨な漆黒──リボルバー。裏社会においても未だそう多くは流通していない銃器の存在を視界の端に捉え、片眉を僅かに持ち上げて)
…へぇ、珍しい物を。
ああ──そっか。そうか、そうですね
(痛みに悶えて目を大きく見開く片割れと目線を合わせるように軽く跳ぶ、随分と高いところにあったはずの頭が視界の少し下の方で揺れるのを見ながら──飼い主様の返事を反芻しながら下手な骨よりよっぽど柔らかいそこに向かって両手で握った重量感のある塊を振り下ろせば腐った果実のように潰れてしまって…後で此処を掃除してくれるであろう小鼠には謝罪をしなくては、さすがに少し手間がかかるだろう。ここのコトを吹聴されては困ると思ってはいたけれど、吹聴した側が既にいるとは思わなんだ。否、十を申し出たのは勿論七が苦手だったからだけれども。流石飼い主様だこと、と体勢を立て直すようにゆらりと姿勢を戻したところで聞こえた声に視線を動かし…あまり見たことがない武器に少しだけ首を傾ける。小さなものだ、それから光っていて綺麗。ぴちゃ、と赤い水の中でもう一人の男に向き直り飼い主様を一瞥する。この武器が、飼い主様を狙うなら…間違えて九くらいにしてしまう可能性があるけれど念の為に聞いておくことにしよう)
飼い主様、これ武器?珍しい武器?面白いやつ?
…低く屈め。射線を避け、後は下段から。
(元来の静謐さから一転して悪趣味にも程がある血生臭い装飾の施された店内で、此方へごく呑気に向けられる奇妙な色合いの双眸。鈍く黒光りする鉄の銃口は、当然ながら目前へ迫る少女の形をした悪魔を捉えて。とはいえ、はたして夢か現か幻か、一種の芸術が如く流れるように形成された目前の地獄は未だ信じ難いものがあるらしく、撃鉄を起こす指先は細かな振動を宿し。恐らく命のやり取りを含む場数に乏しい、あるいは少女のあまりに異質な佇まいも拍車を掛けてだろうか。相方の頭蓋から零れる赤が床面と共に男の正気をもじわじわ侵食するようで、一向に定まる様子のない照準では如何な近距離とて当たりそうもなく。投げ掛けられた問いの一切を取り合わずに、親切にも最適解のみをぼそりと零したのは彼女の身を案じてではなく、単に無駄打ち分の弾が勿体無いというだけの理由。もしも相手が指示通り下段から銃を弾き男を制したなら、灰を落とした後にようやく羽織風の上衣をひらめかせてそちらへ赴き、地に転がる鉄塊を拾い上げるだろうか)
──意のままに
(ぎらぎらと鈍く光る黒、が、震えながらこちらに向けられている。刃物のような静かで冷たい熱とは異なる熱く重たい血の匂いがするような、そんな品とは程遠いそれが飼い主様曰く珍しいものだというのだから全く大人というのは本当に訳が分からない生き物だ。再度、ぴちゃりと嫌な音を立てて、ぐらぐらと揺れる黒を目で追う。訳の分からない音を呟くように唇がわなないていて、この男を生かしたところで使い物になるのかは定かではないけれど飼い主様が望むのならそうせざるを得ない。飼い主様の、言葉を理解する、次に、身体をどう動かせば良いかを考える、男の指が、何か引っかかりのような物に掛けられて、少し引かれる瞬間…ほんの少し、それよりも早く。低く膝ごと身体を下げて、向けられている黒いソレから目を逸らさないように不気味に光る瞳に映したまま、爪先に込めた力を全て前方に掛けるように床を蹴って、下から銀色の重りを振り上げるようにして薙ぐ。男の腕を捉えたソレは嫌な音と共に黒いソレを弾き飛ばして…目の前に倒れ込んだ男に振り下ろしかけた武器は思ったよりも勢いがついていたようで、男の顔横スレスレで止まった。飼い主様の気配が揺れて、視界の端で黒が動くのを見ながらそっと姿勢を正して…見下ろした男は随分と小さく見えた。可哀想に、今ここで終われたならどんなに良かったと後から思っても遅いだろうに──失敗した手駒には居場所なんてもう返ってこないのだから)
…珍しいものだって言ったから、傷付けないように腕を狙ったけれど、大丈夫そう、ですか?
まぁ、上出来だ。……よくやった。
(恐らくはこれまで弱者ばかりを選好し、一方的に虐げる事しか能がなかった男に、強者との不意の邂逅は青天の霹靂だったのだろう。正に猫の如くしなやかな疾駆に凡愚が追いつけよう筈もなく、手際良く制圧された男の頭部へと今し方確認を終えた銃口を向けて。少々危うげな節はあったものの、傍らの少女へ視線を交わせば端的ながら確りと労をねぎらい。如何に替えの利く手駒といえど、糖分を脳や四肢へ回すように言葉や態度での飴も一定程度は必ず与えなければならない。単純に利害関係での支配が最も容易で確実ではあるが、己が手に何も無い飢え切った輩こそ、何も無い筈のそこに情のような存在価値のような、あたかも掛け替えのないかのような何かを都合良く幻視し始めるものなのだから。…さて、折角相応しい卓に着いていただいた事だ、改めて正当な“交渉”を再開するとしよう。──暫しの時を経て。完全に先の少女との交戦で心の折れたらしい男は、特に特殊な手技手腕など振るわずともよく喋ってくれた。念の為それなりに痛め付けはしたものの、下っ端風情では銃器や薬物の入手ルート等はやはり知らされていないようで、組織の内部情報も既にこちらが既知としているものばかり。まぁ最低限、店の情報を漏らした存在の名を確認しただけでもこの場は良しとして。もはや用済みとなったそれの太い首へ、徐に伸ばした片手のみであたかも枝を折るように簡便に。後始末は他の手駒に任せるとして、静かになったそれを床へ捨て置くと眉一つ動かさぬまま腰を上げ。今し方の拷問を手伝わせた傍らの相手へ視線を向ければ、思い出したかのように手中の銃を軽く示してみせて)
……あぁ、そういえば。お前にはまだこれを教えていなかったな。
(黒黒と光る武器の先が本来の持ち主よりも自然で慣れた動きでぴったりと足元にへたり込む男に向けられるのを特に何の感慨もなく見下ろしていた。楯突く相手が悪かった、とかそういう次元の話ではなく、近寄るべきで無いところに踏み込んだのが悪い。褒め言葉は甘言でも賞賛でもなく解答用紙の丸つけと同じこと、深く受け取るだけ隙が生まれるものだから少しだけ嬉しそうに目を猫のように三日月に歪めて笑うだけ。そうして…何時何処の場所でも手駒なんてものは簡単に捨てられる運命なのだと示すように、簡単にその男の人生は終わった。飼い主様の、手で。ぴちゃ、と身体の向きを変えるだけで生温かい液体が飛んで不快だ、し、己は良いにせよ飼い主様は嫌だろうと視線を向け…かち合った灰色にまばたきをした後頷いて。薬や刃物はある程度目にする場面が多いけれど、そんなにも黒くて小さな何かは記憶にない)
…あの場で出してきたってことは、武器なのでしょう?強い?痛い?黒くて綺麗です、ね
その身に受けた方が早い。
(警戒すべき敵が血溜まりに沈んだ以上、当然ながら幾らか無防備な調子で泡のように浮かぶ疑問符を並べるいたいけな少女へ、露程の躊躇いもなく銃口を向ける。片目では細かな遠近に支障はあるが、この距離なら外しはしない。どの道、試射は何処かの段階で必要なのだからと諸々の手間が非人道的な合理性をもって潔く省かれ、灰色の双眸が酷薄に細まり。──暴力的なまでの鋭い銃声が室内に響き、よほどの反射神経か十全の警戒でも無い限りは彼女の利き手でない腕の外側を灼けた鉛が容赦なく抉るだろう。目立たない床面の際へ違いなく着弾しているのを目視で確認したなら、相手の負った手傷の有無に関わらず平然とした「大方の威力や速度は把握したな」という言の葉を皮切りに、銃器についての概要を簡略に語り。万が一にも弾丸が体内に残ると面倒、と軽く外側に掠める形での銃撃とはいえ、予想外のそれだったろう相手を尻目に黒衣を翻すと、少々疲労の滲む声音で奥の廊下へと繋がる扉に靴先を向け)
……妙な来客に随分と骨を折らされた。店はもう閉めておけ、俺は自室に戻る。
(先程の男とは違う静かで流れるような所作、向けられた黒い小さな口と大きな手が掛かった突っかかり、握り込む形で使う武器なのかと瞳を逸らさないままずっとその動きを見据えて…このまま飼い主様の手にかかればこの後どれくらいの間続くか分からない地獄から解放される、と救いを求めてしまいそうになる己と先程習った方法で飼い主様の腕を奪えば逃げられるだろうかと思う己と、逃げる場所はないのにという己と──小さな引き金に指がかかる、爆発するような小さな体に見合わない大きな音、何か熱い塊がこちらに向いた小さな口から飛び出してきて、腕を掠めて後ろへ飛んで行ったのを見た。火傷と切り傷、小さいくせに速さがある、し、傷の深さは少し想定外だ。飼い主様があくまでも性能を確認するために、教えるために、撃ったのだと分かっていてその躊躇の無さに困ったように眉を下げる。まったく、己も大概言えない言葉だろうけれど化け物のような人だ。お陰様で、感謝はしても恨み辛みでいつか寝首をかいても罪悪感なんて持つことは無いだろう。左腕に出来た傷を指先で撫でれば嫌な痛みと指先が濡れる感覚がする、店を閉めたら手当をしよう…頭を下げて、飼い主様を見送るように)
──何かございましたら、お呼びください。おやすみなさいませ、朱墨様
“何か”、……あぁ、それと。
(むせ返るような血の匂いの残る凄惨な室内へ、滴る腕の感覚にも文句一つ言わず従順な手駒の顔で残らんとする相手は今日も今日とてこの地獄における最適解を踏む。しかし、最後に添えられたごく丁寧な見送りの口上は、今回に限り余計な添え物であった事を後に知るだろうか。そういえば近頃は少々肌寒い夜が続く、と疲労した脳に着想を促しては、寝室へと向かおうとした足を扉の手前でヒタと止め。一度緩慢に片足を引いて半身のみ振り返り、思い出したかのように結んだ唇を開き新たな命を下す。それは明らかに先の客人との問答を引きずるものであり、ともすれば夜伽か何かを彷彿とさせかねない不足した物言いであり、密かに相手の振る舞いを根に持っていたが故の狭量な意趣返しであり。その証拠に平素の淡白な唇へ底意地悪げな笑みを薄く刷いてみせると、以降は一挙に関心を喪失した面差しで自身はさっさと扉奥へ消えて行くだろう)
やるべき事を済ませ、寝支度を整えたら、今夜俺の部屋に来い。仮にも愛猫を名乗るなら、それらしい仕事の一つもこなすんだな。
──は、?
(下げた頭と視線の先で、己の血もその先の赤に少しずつぴちゃぴちゃと落ちていく音がしている。浅い傷のはずだが、と思えばこそあの武器は凄いものなのだろう。賞賛はできないが。それだけ多くの小鼠たちが怯えることになる未来があるだろうから。昔の己と同じように。途切れ途切れの思考はこの後の事を考える思考と行ったり来たりして、だからか飼い主様が足を止めた気配に少し遅れてから頭をあげ首を傾けた。何かおかしなことを言っただろうか、覚えはないが、謝った方が良いだろうか、そんな思考が結論を導くより先に振り返った灰色の瞳は随分と意地の悪い光を宿していた。無理難題には慣れている、二つ返事をしそうになり途中で言葉が止まる…動揺している間にその黒い影は扉の向こうへ消えたけれど。どうしたものか、と腕の傷をそっと押さえて血で汚れた足を適当に寝巻きの裾で拭うと自室へ戻るために己も扉の向こうへと向かう。水を浴びて、血を落として、着替えて、それから飼い主様の元へ向かわなくては──己に食指が動くとは思えないし、可能性として有り得る最悪の想定をいくつか予防線のように考え続けて)
…路地裏に捨てられるか、拷問か、躾直しか──どれにしても、救いは無いや
(決して広さのある贅沢な部屋では無いが、何よりも実用性を最優先とした何処か冷ややかな趣きのそこは、元々は先代の私室に当たる。当時からの据え置きである重厚な書斎机やわざとらしい程に健全な香炉の専門書等が居並ぶ本棚はさておき、一新した寝具の方は如何にもただ休息を取る為の場であると言うように、余計な装飾の一切を排された機能的なもの。そんな寝台に腰を下ろす己の姿は、例の怪しげな雰囲気を醸すサングラスを外し、深い紺色のゆったりとした寝衣にカーディガンを肩掛けしたに過ぎず、黒髪すら胸の手前で緩やかに紅の紐で結ばれているのみ。この手の生業において、齢は上に見られた方が何かと都合が良い。故に印象操作の一環としての上等な衣服や装飾の一切を外してしまえば、少しばかり素の風貌が若く見えてしまうのは否めず。とはいえ手駒風情には無用の心配だろうと適当に寛ぐこと暫し、もしも扉の先で何者かの気配、あるいはノックの音が響いたなら「入れ」と無機質に一言。よもや本気で夜伽などと誤認してはいまいが、さりとて生きた湯たんぽ代わりとまでは恐らく予期していないだろう相手へ、膝上に肘を置き頬杖を付きながらゆるりと視線を持ち上げて)
……それで、今夜の猫役を務める覚悟はして来たか?
(冷たい水を浴びて頭を冷やそうかと桶に水を張った、が最悪の場合これが最後の湯浴みになる可能性もあると思うと──温かなお湯と、少し前に贔屓にしている客人が駄賃にくれた香を焚いた。最後くらい贅沢をしても罰は当たらない。それから、死装束になるのならと少しだけ肌触りの良い寝間着を着て、髪も解いたまま部屋を出た。暗い廊下を、緊張から無意識に指を組み合わせながら進んでいく。飼い主様の部屋の場所は勿論知っていて、それはあくまでも給仕が必要な際に訪れるためであって、こんな、こんなにも心臓が痛い状態で訪れるつもりは露ほどもなかったのだが。部屋の前で深呼吸を一つ、最悪扉を開けて刃物か先の武器か、あるいは何かが飛んできて傷を負っても甘んじて受け入れようと…扉を叩き、聞こえた声に部屋の中へ。殺風景で、しんと静かな部屋の中、想像よりも年若く見える飼い主様は無防備に寝台に腰掛けていて──ぎこちない手つきで扉を閉めた後、見下ろすことを避けるように飼い主様の前で躊躇いなく床に膝を折ると普段は薄い硝子に隔てられている灰色の瞳を前髪の向こうから見上げ。猫のように可愛く鳴くことも、勝手に擦り寄ることも許されないけれど問われたのなら答えなくては)
──てっきり仕置きか何かだと、思って…朱墨様、わたし、何をしたら
…愛猫と聞いて、どんな経路を辿れば仕置きと結び付くのかは知らんが。別に、そう悪いようにはしない。
(珍しく腰元で揺れる深紫の髪を見たかと思えば、妙な緊張を面差しに湛えて踏み入る少女。確かに己の物言いは明確な悪意を孕んではいたが、相当悲観的に捉えていた様子で膝を付く相手を見下ろし、自然と呆れを含む声が低く漏れて。とはいえ、これまでの彼女の境遇や自身の日頃の行いを鑑みれば深い追求はせず、頬杖を付いたまま空いた隻手をひらりとさせ手招きを。もしも相手がこちらへと歩みを進めたなら、腰を持ち上げると同時に前振りなく細い手首を掴み。いたく作業的な面でその手を引いて、少女にとってはかなり手広な寝台の上へ荷でも投げ込むように小柄な体躯を軽く放ろうとするだろう。その瞬間に鼻腔を掠めた質の良い香りは、明らかに彼女本来のそれではなく。飾り気のない相手が突如洒落っ気に目覚めた、というよりは自らの死臭でも気にしたか、はたまた死に際の一時の楽しみかとまで推察が及べば、さすがに腹底から愉快さが込み上げて。堪え切れずに一瞬口許を覆った手の内で笑みを忍ばせるも、微かに震える両肩と平素よりも情感の滲む語調までは隠せずに)
──…どうも、結構な期待をされていたようだが。どの道、夕方まで惰眠を貪っていたなら眠気はないだろう。ここで一晩、寝ずの番でもしていればいい。
(散々っぱら悪いように使ってきた御人が何を言うか。どうやら仕置きではないようだと安堵したのも束の間、呆れたように揺れた手に促されるまま立ち上がり灰色の眼前へと──僅かに、飼い主様の身体が揺れるのを認識して身を引こうとするより先に冷えた手が緊張で強ばった猫の手を掴む。どんなに今は己を盾に立たせようが、体格も力も何もかもの差が歴然で、故に軽々と放られた身体は無抵抗なまま己の部屋のものより質のいい寝具に沈む。驚いて声も出せないまま、どうやらこちらの杞憂を察したらしい意地の悪い飼い主様が珍しくも笑っているらしいことにも驚いて、寝具に転がったまま暫く、前髪が横に流れたせいで明瞭に見える視界にその珍しい姿を納め。背後から香る飼い主様のそれと、己の身につけたそれが混ざる空気を吸い込んだならようやく状況が読めてくる。慌てて身体を起こし、放られた手前、勝手に降りることはなくとも落ち着く場所を探すように可能な限り寝具の端へ端へ)
愛猫を放るとは。寝具を引っ掻いて破いて、香りを擦り付けられても知りませんよ──寝ずの番ならば、放る場所は廊下です、飼い主様
…なんだ、知らないのか?肌寒い夜は、愛猫が飼い主の寝所を暖めに来るものだ。
(笑いの余韻が収まってから、猫の尾を追いかけるように自らもベッドの上に身を持ち上げる。ギシリ、と二人分の重量に悲鳴を上げる寝台を構うことなく、端に寄る相手の逃げ道を丁寧に潰しながら際の所まで追い詰めて。先刻まで下降していた機嫌も幾らか回復した様子で口端を上げると、哀れにも逃げ惑う猫をいたぶって弄ぶような風情で隻手を伸ばし。それこそ爪や牙でシーツなどに傷を付けられぬように細腕を引き、掛け布団の内側に相手を引き入れつつ自身の腕の中へと囲い込むだろう。よもや密着した年若い少女の肢体に劣情など催す訳もなく、元は肌寒さにかこつけた悪辣な鬱憤晴らしのようなものだったが。たとえ豊満な肉や柔らかな毛並みがなくとも、内に熱を灯す生き物の温もりは決して悪くない感慨を己にもたらし。それこそ路地裏時代の、本物の愛猫の熱を回顧して瞳を細め)
……まぁ、思っていたよりは上等な枕だな。
(己の寝床と比べていくら広いとは言え逃げ場が多いわけでもない、飄々といつだって本心が掴めない飼い主様がこうも愉しげに己に構うなんて夢のまた夢…どちらかと言えば悪夢といっても差し支えない部類かもしれないが、今は口を噤む。伸びてきた腕に咄嗟に身構えるも、掴まれた腕は大して痛むこともなく、そのことに酷く驚いてしまった。本当に、何か痛めつけるための行為では無いのだと裏付けが取れたような気がして引かれ招かれるままに腕の中に収まり。枕だと、猫らしく温めていろと、部分的に言いたいことを理解して再度横に流れた髪のおかげか明瞭な視界で飼い主様を捉え…身体の力を抜いて大人しく求められるまま湯たんぽになることを選んだ。文句言いながらも、目の前の冷えた熱に頬を寄せて温度を分け与える事にして。寒い日に猫を抱えて過ごした過去の夜も、実際のところどんなに慣れたとはいえ誰かを潰した後の夜も、あまり夢見が言い訳ではなかったから)
薬とか、売り物とかで囲っている猫を、連れてきたら良いじゃありませんか。わたしより、柔らかくて良い匂いで、一時の欲にも役に立つのに──朱墨様が、悪戯に不穏な言い方をするから、わたし、もう朝は来ないのだと思って、来たのに
それらよりは、お前の方が好ましい。……最低限の分別と頭のある、損得勘定のみで動く駒は御し易いからな。
(安価な言葉や態度などで働き蟻となるなら儲けものと、拾った孤児へ最低限の懐柔策は施すものの、容易く移ろう愛や情など到底信用出来るものでは無い。その点、こちらの巧言に惑わされにくく、自身に一片の情も忠義もない相手の態度や性質は却って信が置けるというもの。冷えた心身に他者の体温がじわじわと布越しに浸透を始めると、次第に眠気を催して瞼の開きが悪くなり。抱き枕の収まり良い場所を探すように一層相手を抱き寄せると、低く掠れた声で耳元へ落としたものは限りなくペテンに近しいそれ。わざわざ手塩に掛けた持ち駒を無為に捨てるような真似はしないが、状況と都合が揃えば躊躇無く死地へ送る上に、徐々に摩耗する少女の身と精神は元々そう長く持つものでもあるまい。けれど、自身にとって有益である須臾の間程度は重用してやろうと、先刻貴重な弾丸という対価を払って“教育”した腕の傷を痛まぬ程度に上からするりと撫でて。こうも見え透いた甘言を恐らく純に飲めもすまい哀れな猫への、他愛ない寝物語には丁度良いだろう)
己の機嫌程度で、手駒を壊すような下らない損失など払うものか。俺の役に立ち続けるのなら、これからも翌朝の保証程度はくれてやる。…主を違うことなく猫のように喉を鳴らすなら、それこそ愛猫相応に可愛がろう。
──それでも、片目たる武器を、寝床に招くのは、些か無防備かと
(飼い主様が微睡んでいる、瞼の向こう側で灰色の瞳がゆらゆらと揺れている、水面に映る月より覚束無い片側だけの光を宝石のような両目で捉えたまま考えた。もし刃物の一つでも持って来ていたならば、今頃己を引き寄せるその腕は力無く肉の重みだけでここに縛り付けたのだろうか、あるいは己の見る最後の光景がこの部屋の天井になっただろうか、そんなことを。薄い布と皮膚から毒を染み込ませるように、唆すような甘言が掠れた声と吐息に紛れて耳に触れて首を竦めたのは反射だが、確かにこれは何も知らない野良猫には任せられないかもしれない…煽られたと嬉々として馬乗りになって飼い主様を求めだしたら、それこそたまったものではないし。腕を撫でる手に意識を引き戻し、どんな金銀にも変え難い朝を簡単に保証する飼い主様を嘲笑うように笑って身を預けた。良いだろう、朝の対価が愛猫の忠誠だと言うのなら与えられる内は望むままに喉を鳴らして腹を見せるのも悪くない。ただ──腕に残る傷も、好きに引き寄せられた身体も、一度くらい仕返しにもならない嫌がらせをしても許されるのではなかろうか。視界の中で穏やかに上下する胸元に手をついて、やわく噛み付こうと開いた口は随分と無防備な首元へ)
取ってこいも得意な猫です、飼い主を違えは──しませんが、無防備な、目の前の急所には、噛みつきたくなりますね。
っ……、噛み癖が付いているのなら、これを機に矯正してやろうか。
(うっすらと意識が心地良く夢と現を彷徨い始めた頃、首元への淡い刺激に道筋を阻まれては眉間に皺を刻み。いくら牙の欠けたそれとはいえ、よもや本当に主へと喰らい付くとは。ほとほと肝の座った猫だと、殺意に欠ける分些か反応に遅れた指先で相手の首裏の服を引くと、幾許か気温の下がった眼差しを気怠げに送り。しかし、それ以上特に何の折檻を加えるでもなく、正に寛容な愛猫家が如く口枷代わりにと小さな頭部を自身の胸元へ押し付けて。…もしも忍び寄る眠気により躾を億劫がる事を見越しての所業だとすれば、本当に心底良い根性をしている。これ以上どこぞの不良猫が命知らずな悪戯を重ねないようなら、そのまま暖かな他者の熱を身の内に封じて瞼を下ろし、少しの間の後には本当に寝息を立て始めるだろう。いくら平素愛用している武器とはいえ、所詮は十代も半ばの小娘。その全てに諦観し、自身の惨憺たる末路すらも曖昧に映し込む美麗な瞳の中に、かつての自身のような何に変えても這い上がろうという気骨や苛烈な生への執着は無い。かように己の内でただ丸まるしかない哀れな猫を、死の懸念を抱いてなお刃物の一本も有さず、ただ質の良い香りのみを身に纏い戸を叩く他ない惨めな少女を、気紛れに愛でこそすれ寝込みの危惧などするものではなく)
……、寝ずの番とは言ったが。眠れるようなら、そこでお前も大人しく眠っておけ。──…おやすみ、宵。
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