匿名さん 2022-05-28 14:28:01 |
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……ッハイ!
( ──私も一緒に戦わせてください! そう口にしかけた懇願はしかし、相手の覚悟の決まった背中を前に短い快諾にしかなってくれなかった。後になってこの時のことを、その頼もしい背中に見蕩れていたとでも正直に言おうものなら、こっぴどく叱られたかもしれない。ともかく、愛しい恋人を映した瞳を、ハート型にとろん、と溶かしていたその時。それでもいい募ろうとしたビビにダメ押しをしたのは、ちょうどザブザブと波を掻き分けながら、こちらへと近づいてきて、「ごめん、ビビはリズを浜まで連れて行ってくれないか」と、ビビ同様サイズの合わないシャツを羽織らされたリズを差し出して来た、その赤い頬にくっきりと掌の跡をつけたバルガスだ。大きさと位置から見るに、リズのそれではなく自分で叩いたかのようなそれと、真っ赤に血走った白目は太陽のせいで誤魔化すには随分なそれだったが。ともかく、魔獣という脅威を目の前にして、一般人を安全に避難させるのも冒険者の立派な仕事だ。浜辺に戻りながら親友に話を聞けば、さもありなん……というしかない苦難がバルガスのことをも襲っていたらしい。「リズ、リズちゃん!」と声を張り上げる自分に気がついて──バル君! と甘えるエリザベスを、最初こそいつもの爽やかな笑顔で受け止めたバルガスだったが、可愛い幼馴染の上衣がないことに気がついた途端。それはそれは素晴らしい速さで自らの上着を被せて、何処までもスマートに浜へと戻ろうとした動じなさに、とうとうエリザベスがキレたらしい。──私怖い、だかなんだか。白々しいことを言いながら抱きついてやれば──あとは男女のちちくりあいなぞ、右から触るか左から触るか程度の違いで、ビビ達と取り立て語る程の違いは無い。「あれで反応しなかったらどうしようかと思いました」と、やたら満足気な親友に──自分も無意識にもっと酷いことをやってのけたことには気づかずに──うわぁ、と。お陰で見たことの無い目の色をしていた槍使いに同情を深めるばかり。慌てて砂浜へと向かわず、ゆったりと浜に平行に泳ぐ──沖に流された時の対処法を冷静に守りながら、段々と落ち着いてきたらしい親友に怪我がないか、痛むところはないかと念入りに確認をして、やっと陸に戻れた頃にはさて、男共の決着はどうなっていることだろうか。 )
(エッヘ・ウーシュカという魔獣は、海の上ならば本来無敵だ。波間に沈まぬ不思議な蹄に、触れたが最後、決して離れられなくなってしまう恐怖の毛皮。魔法こそ使えずとも、一方的に近づいて絡めとった敵を海の底に引きずり込めば、あとは獲物が溺れ死ぬのを悠々と待ち詫びるだけ。暫くの後、赤黒く染まった海面に、ウーシュカの好まない犠牲者の肝臓だけがぷかりと浮かび上がってくる──本来そんな、悍ましい所業をしでかす怪物であるはずだ。
グランポートのウーシュカは、更にその上位種として生まれついた個体だった。ケルピーとの間の子たる彼は、普通のウーシュカには宿り得ない、水嵩を自由自在に操る力まで持っている。ただひとつ欠けているのは、有害魔獣には皆備わっているはずの、悪意に満ちた攻撃性だけ……いやまあ、あるにはあるのだけれども、人を取って喰おうという真に有害なそれではなく。せいぜいが、「色っぺえ姉ちゃんのいやんあはんを拝むぜぐへへ」程度の、実に低俗でくだらないそれなのだ。彼はとにかく美女に目がない。より言うならば、水着姿が大好物だ。故に、大胆な姿の彼女らが戯れに来てくれない寂しいビーチにはするまいと、他の魔獣を手あたり次第、勝手に蹴散らすほどである。ここらの魔獣を討伐しているトリアイナの連中も、彼がハイ・ウーシュカであると知りながら見逃してやっているのは、そういった事情によるもので。妙に人懐こい個体のようだし、まあ不埒な真似はいただけないけれども、放っておけばなんか勝手に働いてくれるからいいだろう、と。そんなわけでこのウーシュカは、わりと自由奔放に、のびのびと好き放題して生きてこられたのだ──今日までは。
今この瞬間、ウーシュカの眼前の波間に並んでいるのは、別に海上を走れやしない人間の雄がたった2匹。しかしその形相はさながら、片や修羅、片や羅刹。どちらも凄まじい怒りを立ち昇らせ、このウーシュカを、海帝リヴァイアサンが如き眼で睨み据えている有り様だ。「……バルガス、おまえ、魔法の腕は?」「ええ、たった今、覚醒したところです」──。無論、高知能とて人語を介さぬウーシュカに、男たちの会話の意味が正確にわかるはずもない。ただ、彼らは本気でこの自分を殺しにくる、ということだけが、はっきりと見て取れて。
一瞬の見つめ合いの後、派手な飛沫を上げてウーシュカが身を翻した。美しい黒毛の獣が、青海原を駆ける、駆ける。それはもう、伝説の駿馬グルファクシもかくやというほど、一陣の海風となって。だがその行く手に、掌にドラゴンの卵大の稲妻を掻き集めた壮年の雄のほうが、バチバチとそれを叩き込んだ。感電してひっくり返るウーシュカの太い胴体、そこめがけ。いったいどうやってか、海上から高く高く躍り上がった若いほうの雄が、魔法で錬成した氷の槍を大きく大きく振りかぶる。ウーシュカとて本当に死ぬとなれば必死だ、慌てて周囲の波を操り、圧倒的質量の水の盾で切り抜ける。忌まわしそうに叫ぶ若い雄、追い込めと叫びながら猛然と泳ぎ寄ってくる年嵩の雄。雷鳴が轟き、氷雪が荒れ狂い、大波がのたうち回った、その果てに──。「……おまえたち、いったい何をしているんです?」。雁字搦めに絡まり合った、馬一頭と男ふたりの目前に。小舟でようやく駆けつけたギルドマスターが、指鳴らしひとつで全ての現象を止ませながら、呆れた声を投げかけるのだった。)
(──かくして。ようやく浜辺に上がったギデオンとバルガスは、駆け寄ってきたそれぞれの女性に、奪い返した水着の上衣をしっかりと手渡した。代わりに優しくかけられたタオルで、濡れ髪を掻き込むその真横。しわしわの電気鼠のような顔をして浜に上がってきたのは、例のエッヘ・ウーシュカだ。頭をがっくり項垂れたまま、ギルマスからの静かな──誰もが居た堪れない気持ちになると評判の──説諭を喰らっている奴を見て。最初こそ、「ギデオンとバルガスが自分たちの女を巡って魔獣と決闘してるらしい」と面白がっていた連中も、そのけだものがマドンナたちの水着を盗んだと聞き知るなり、皆群がってやいのやいのと罵りはじめる。──その中からすっと進み出て皆を黙らせたのは、誰あろう、ダークオークも裸で逃げ出す恐怖の女山賊こと、カレトヴルッフ前代三人娘たち。「うちのビビとリズに──」「──不埒な真似を──」「──したんですってね?」。妖艶な大人美女たちに近寄られたことで、最初こそ性懲りもなく元気を取り戻したウーシュカだったが。彼女らと目を合わせるなり、ギデオンたちよりよほど恐ろしい敵に捕まったのだと悟ったらしい。その全身をがくがくと震わせながら、にこにこ顔のリッリが「ん?」を差し出す片手の上に。己を唯一支配できるもの、魔法で編まれた頭絡を差し出して……人間に対する完全服従を、自ら誓わされたのだった。)
(それから二時間ほど過ぎたころ。デレクとカトリーヌ主導によるスイカ割りを楽しんだ一同は(因みに、手からすっぽ抜けたこん棒がジャスパーの後頭部を見事強打する一幕があったものの、もはやお約束過ぎて誰も注目すらしてなかったとか)、いよいよ竈や網を持ち出し。普段より少し早い時間の夕食、豪勢なバーベキューで大いに盛り上がることとなった。大量の薪や食料を乗せた荷台は、もちろん例のウーシュカが嫌々曳いてきたものだ。「皆さん、どのお肉が欲しいですか?」と大皿片手に気を配って回るアリアに、先ほどからばくばくと焼肉を掻き込んでいるバルガスとギデオンだけが、「馬肉」「馬刺しをくれ」と、真横に控えるウーシュカ尻目に、息ぴったりに主張して。向かいにいるヴィヴィアンやエリザベスを破顔させたその後ろから、カレトヴルッフの招待したトリアイナの人々……その頭領たる海の男がやってきては、大笑いしながら馬の尻をバンバン叩き。「なアおめェ、食肉に潰されたくなきゃ、いい加減うちの馬になれよ。なあに、仕事を頑張ってくれんなら、ここ以外のビーチにも見回りに行かせてやっからよぉ!」──そう聞いた瞬間、みるみる生気を取り戻したウーシュカの、つぶらな瞳の輝きようよ。ブルヒヒィン! と汚らしい、喜びに満ちた嘶きよ。これからもこの愚馬は、港町の守り神として活躍することになるのだろう。今後金輪際、二度とグランポートには来るまいと、固く決意したギデオンである。)
(──そうして。五日間も続いたはずの訓練合宿は、あっという間に終わりを迎えた。片づけを済ませ、トリアイナの連中と別れを交わしたカレトヴルッフ一同は、昼のうちに荷造りを終えていた甲斐あって、すぐさまコテージを出発し。幌馬車に揺られること数時間……遥かキングストンに続く運河、その波止場へ辿り着くと、わいわいと押し合いへし合いしながら中型船に乗り込んで。真っ赤な夕陽に沈みゆくグランポートの海岸線に、いよいよ別れを告げたのだった。
川を遡上する関係で、帰りの船旅は二泊三日。この間もベテランたちは、今回の合宿のフィードバックやら、報告書の見合わせやらを行うのだが、合宿中に比べれば充分にゆとりがある。故に、ギルマスの新たな指示も聞きながら諸々の仕事を手早く片付けたギデオンは、すれ違ったアランと挨拶を交わし、デレクとカトリーヌを窘め(変顔を返された)。持ち込んでいる酒でも飲むかと入りかけた部屋で、何やら神妙に向き合っているレオンツィオとスヴェトラーナを目撃してすぐ踵を返し、結局何とはなしに甲板へと上がることにして。航路をだいぶ進んだこともあり、辺りには新緑の匂いが濃い。ここ数日はずっと潮風に吹かれていたが、やはり自分は森の人間なのだろう。樹の香りの方が、ずっと心が落ち着くようだ──そんなことを考えながら、デッキの柵に正面からもたれ、心地よい風に当たって。)
( トランフォードの誇る華の王都、キングストンから南部を繋ぐ中型客船。その月明かり差し込む三等船室には、大河を遡上するペダルが水を漕ぐ低い音と、そのペダルを回す魔力が奏でる微かな煌めきが心地よく響いている。そこで書物を終えたヴィヴィアンは、ゆったりと窓辺に腰掛けて、ギデオンから貰った簪とスカーフを何度も何度も撫でては月明かりに照らし、ほう……と、うっとりした吐息を漏らしていたのだが。今晩は月が明るい、既に寝入っていたリズが眩しそうに寝返りを打ったのを見て、そっと静かにカーテンを締めると、一人静かに甲板へと上がることにしたのだった。
そうして、月明かりを反射して光る水面を何気なく眺めながら、良い場所を探して広い甲板をゆっくり一周しようとした時のこと。船尾から右舷の方へ曲がり視界が開けた途端、少し離れた柵にもたれ掛かる姿すら様になる相手を見つければ、思わずいつも通り飛びつこうとして、そよぐ髪の毛に一旦立ち止まったのは──ギデオンが似合う、と言ってくれた姿で会いたかった乙女心。新緑の風に広がっていた髪を捕まえ、赤いスカーフの髪留めの角度にこだわること30秒ほど。変な所がないか近くの窓でチェックしてから、再び跳ねるようにして駆け寄ると。今回ばかりは欄干の近く故、危なくないようしっかりと速度を殺して抱きつくと、柔らかく、しかし溢れんばかりと愛しさは伝わるように、背後からぎゅうぅ、と長く強く抱き締めて。 )
──……こんばんは、ギデオンさん。
こんな時間にどうされたんですか?
(何やらご機嫌な軽い足取りが近づいてくる気配。おや、というようにそちらを軽く振り向きかけたところで、己に心底嬉しそうに飛びついてきたのは、無論恋人のヴィヴィアンだ。背後からぎゅうぎゅうと抱きしめてくる懐っこさに思わず苦笑し、彼女の腕の中で向き直ると、「おまえもまだ起きてたのか」とその前髪を掻き分けてやり。そのまなざしがふと、完璧に調整されたスカーフへと自然に移れば、相手の目論見通り、その目尻に愛しげな皴を無自覚に浮かべるのだから、相手にとってはさぞや遣り甲斐のあることだろう。背後の柵に背を預け、その疑似耳を指先で軽く弄びながら、穏やかな声音で返答を。)
ギルマスに言われたいろいろ書類をやっつけたんだが、もう皆寝入りだす時間だろう。たまにはのんびり夜風に当たってみようかと出てきたんだ。──まさか、おまえに会えると思ってなかった。
( 前髪を梳く優しい指先と共に発されたのは、少し意外そうな口ぶりのそれ。皆と過ごしたグランポートが楽しすぎて、日常に帰るの最後の夜を眠って過ごすのが勿体なかった……なんて言ったら、子供のようだと呆れられてしまうだろうか。そう無言でただ小さく微笑み、私だって夜更かしできるんですよ、というふうに。けれども、どうしようもなく安心してしまう相手を目の前にして、少し眠そうな目を閉じ胸を張って見せれば。スカーフへと手が伸ばされる感覚に、何処か得意げな表情が益々誇らしげに綻んで、ギデオンに触れられていない方の耳がぴこりと元気よく揺れるだろう。 )
私も、会えると思ってなかったから嬉しいです。
髪飾り、本当にありがとうございました……そうだ、今お時間ありますか?
( そうして、ギデオンの穏やかな声音に、にっこりと人懐こい笑みを返し。触れられているのは擬似耳にも関わらず、相手の指に擽ったそうに小さく首を竦めれば。頭上のそれにはっと瞳を丸くして、「本当は家に帰ってから渡すつもりだったんですけど」と、腰に括りつけた袋から、小さな包みを相手に差し出すだろう。グランポートの海を思わせる、深い蒼色の包みの中身は、一見ただの白く美しい巻貝。一番最近増えたヴィヴィアンの宝物、今頭上で揺れる紅いスカーフと翡翠の簪のお礼を考えた際、今までの経験上、ギデオンが喜ぶものと言えば、美味しい物か、美味しい物か、美味しい物か──……。その大きな口を開いて嬉しそうに頬張る恋人は愛しい限りだが、簪の価値を思うと、お礼が食べ物では流石に……と思い悩んでいたその時。もう一つ目の前の相手に分かりやすく"喜んでもらえるモノ"の存在を思い出せば、勢いのままに用意してしまったのだが、果たして。一晩かけて探したグランポートの浜できっと一番美しい真っ白な貝殻、ビビの魔素を込められて、任意のタイミングでその魔素を解放できる作りになっているそれは。最終的には任意の魔法を誰でも使えるようにするのが目的の試作品だが、魔素の相性の良いギデオンならば、多少の回復とビビの気配を感じるには充分な代物だろう。そんな、自らで自らの価値を高く見積もるような贈り物に、説明しながらやはり恥ずかしくなって口を噤むと。その視線をギデオンから逸らして、暗い水面に投げかけてしまって、 )
職人街の……ほら、前に紹介してくださった──カイロのことを話したら、もっと魔法を色んな物に保管して持ち運べたらって話になったんですけど。ん……と、説明が難しいな……それはまだ試作品なので魔素が魔法になってくれないんです。
でもほら、ギデオンさんなら私の魔素だけでも……また明後日から忙しくなるんでしょう? 遠征中とか、少しでもギデオンさんが休めたらいいなって思ったの、
? 存分にあるが……、
(はにかんだり、安心しきったり、眠たげになったり、誇らしげに微笑んだり。こちらを見上げる恋人の表情の、月明かりの中でさえくるくると色鮮やかなこと。いつまでも見飽きないそれに、ギデオンは酷く満ち足りたまなざしを投げかけていたのだが。目の前の彼女が何やらごそごそしはじめると、不思議そうに首を傾げ──その薄青い双眸が、すぐにもあどけなく見開かれて。
もたれていた背中を起こし、「…………」と黙ったまま。掌の上に取り出した真っ白な貝殻を、そっと撫でて確かめる。──ヴィヴィアンと過ごして1年。才も知識もずば抜けた彼女を見つめているうちに、いつしかギデオン自身まで、複雑な魔素の働きを読み解けるようになっていた。故にわかる、故に目を瞠る。この自然由来の魔導具は、一見すれば、単に魔素を込めただけのシンプルな造りのようでいて……その実、使い手がどんなに疲労していても望む効果を引き出せるよう、簡単に壊れぬよう、非常に高度な魔法陣が編み込まれているらしい。巻貝自体はグランポートで採集したものだろうから、このところのほんの数日で作り上げてみせたようだ。──最初こそ、そういった技術面のほうに感嘆していたものの。試しに今ここで、指先を動かす程度の魔素を込めてみればどうだ。ぽわりと優しく光った貝殻から、温かい感触が──何度も何度も馴染んできた、ヴィヴィアンの魔素が溢れてきて。身体が回復する分以上に、胸の内が思いがけぬほど深く深く満たされ。愛しげに目を細めたギデオンが、はにかむヴィヴィアンの頬に手を添えて振り向かせ。その大きな額に、瞼に、唇に、感謝の口づけを落としていったのは、もはや必然としか言いようがない。)
──これ以上ないよすがだ。
ありがとうな……大事に持っていくとも。
(ようやく礼を伝えたものの、余程嬉しかったのだろうか。相手に顔を寄せたまま、癒しの波動を放つ魔導具を、掌の内で何度も何度も転がしては。余裕たっぷりな表情、涼し気なすかし面、意地悪く揶揄う笑み──いつも浮かべているそれらは、全くの別人のものだったかと思うほど、ただただ純粋に目元や口元を綻ばせている有り様で。ふと瞼を閉じると、額をすりと擦り付け、空いたままの左手を、彼女の右手へ密に絡める。ちょうどこのとき、たまたま甲板に出てきたギルドの連中が、「シュガールが兎に甘えてやがる……」だとかなんとかぼやきながら即退散していったのだが、ヴィヴィアンに夢中なギデオンは、ろくに気づかないほどで。そうしてもう一度、高い鼻面を彼女のそれに擦りつけ、喜びようを再三伝えたかと思うと──次に開いた目は、何故か酷く残念そうに、繋いだ手の方に注がれる。……体内の魔素がきちんと循環しているということは、あの大怪我から回復したこれ以上ない証左であるから、別に否やはないのだが。自分だけが与えられてばかり、マーキングもし足りないとでも言いたげに、不服そうな面持ちだ。)
俺も、おまえに残していけるほどの魔力があれば良かったんだが。あのとき分けた分は、もうとっくに抜けたろうな……
んっ、いえ…………。
( こんなに喜んでもらえるとは思っていなかった、と言えばそれは嘘になる。きっとこの人は自分のプレゼントを心から喜んでくれるから──帰ってきたらちゃんと使ったか確かめますから。ちゃんと休まないとダメですよ、なんて言い募って……と考えていた展開はしかし、そうはならなかった。これまで見たこともない愛らしい表情に、愛しそうに撫でる優しい指。ギデオンが喜んでくれて嬉しい筈なのに、この胸のもやつきは一体──私、自分で贈った物に嫉妬してる……? そう気がついた途端、たったそれしきの回復量で。私の方が癒してあげられるのに。褒められるのも、撫でられるのも、全部全部私の権利なのに。と、次々擡げるドロドロとした嫉妬心に──提案したその行為が、一部界隈でマニアックな其れとして知られている行為だなんて知りもしなかった。ギデオンがやっと貝殻から視線を外して、此方へと顔を擦り付けてくる仕草に、やっと少し溜飲を下げ。複雑に繋がれた掌を意識すると──あった、これだ、と。慣れない動きでそっと重ねたのはお互いの魔力弁。普段無意識で使っている其れは、少しでも意識を逸らすと直ぐにどこにいったか分からなくなりそうで。これを緊急時に、的確に狙って繋げられる相棒はやはり凄い。そうして、しっとりと紡いだお強請りに重ねるように、その魔力弁を吸いつかせてみるものの。上手く出来ているかよく分からずに、分厚い胸板に身体を預けると、弁の代わりにちうちうと、二、三度相手の唇へと吸い付いて )
……じゃあ。今度は交換、しましょ?
私もギデオンさんの、欲しい……ね、
っ、……!?
(掌の内側を、甘く吸われるような感触。動揺に揺れるギデオンの瞳が、自然とヴィヴィアンの方を向く。しかしそこで目を伏せているのは、もはやいたいけな生娘を脱ぎ捨てた彼女だった。ほんの数日前、こちらのちょっとした素振りにも慄いていたくせに……ギデオンの魔力弁を拙くむしゃぶるその情態の、なんと淫りがましいこと。舞踏会の前、小屋での一夜、カレトヴルッフの医務室、聖バジリオの窓辺──今まで何度か、女らしい顔をした彼女を拝んできてはいるはずだが。ここまで芳醇な、魔性の色香を醸し出すヴィヴィアンなど、己は知らない……そう、ついに恋仲になった今。彼女の中の嫉妬の箍を無意識に外したことなど、朴念仁なギデオンは、まるで自覚してはいなかった。そんな戸惑ってばかりの顔が、ありありと隙だらけだったからだろう。柔くしなだれかかってきたヴィヴィアンに、やっぱり上手くできないから物足りないとでも言わんばかりに、いっそ厭らしいあどけなさで、甘ったるいキスを乞われれば。また無責任な煽り文句を──なんていつものお説教は、もはや脳裏によぎりもしない。──相手のお望み通り、いとも容易く、同じ深みへと心が堕ちて。)
……あの時は必死だったから。上手くできるかな……
(いつもの己らしくない、酷く砕けた、甘えたような口ぶりは。甘い快楽へ身を委ねゆく、無防備さの表れだろう。少しだけ顔を傾けて微笑みながら、大切な贈り物を脚衣の隠しにしまい込むと。下にやった手をそのまま、彼女の楚腰を這うように添え──あまつさえ、欲もあらわにさすりつつ。繋いだ左手の五指の先にも、脈打つように力を籠め、より掌同士を密着させては、己も吸い返そうとする。──けれども、互いの弁が壊れて孔が露出していたあの時とは、難易度が違うせいだろう。やはりギデオンも、上手く弁を合わせられずに、四苦八苦してしまう様子だ。目に見えぬ魔法器官のなかでも、魔力弁は魔髄とは違い、流動的な性質を持つ。特に訓練を積んでいるわけでもなければ、そもそも意識的に動かすことすら難しいはずのものだから、十数秒ほどはささやかに試行錯誤してうたけれども、結局は意識が散るのにもどかしくなり。上に下に組んでいた手を、もう一度熱く絡め直せば。甘えん坊な花唇に、たっぷりと応えを食ませて──結局ふたりして耽溺するのは、いつもそおりのそれだった。
故に、それは偶然だったのだ。青い月明かりの下、それでも宵闇の暗がりに囲まれているせいだろう、船が僅かに進行ミスを犯したらしい。がくん、と軽い揺れが起き、後ろによろめきかけたヴィヴィアンの身体を、唇を押し当てたまま力強く支えようとした……その時。もののはずみでぴったりと重なった魔力弁、そこから己の魔力がどろりと流れ込む感触。反対に、ヴィヴィアンの魔力もまた、こちらにとろりと溶け入ってきて。その既知のようでいて、ほとんど別物と言ってもいい、鮮烈な感覚に。一瞬「!?」と体を固め、糸を引きながら唇を離すと、蕩けていた顔を呆然と見合わせる。──今のは、一体。)
……? ……ギデオンさん、可愛い
( あの時そうしてくれたから、現にこうして自分は生きているというのに、この行為に上手いも下手もあるのだろうか。ゆっくりと此方に向き直り、無防備に微笑む恋人を前にして、ただ分かるのは相手が愛おしくて堪らないということだけ。腰を摩る手に頬を赤くしてはにかめば正直、あの忌々しい貝殻から、この人の腕の中を取り戻せただけで随分と満足してしまったのだ。その証拠に、頼もしい胸板に空いた掌を添え──求められるがまま、許されるがまま、その下唇を吸い、夢中になって厚く熱い舌を食んでいれば、それが結局いつもと何ら変わらない触れ合いだと言うことなど微塵も気にならず。じわじわと上がる体温に瞳を閉じて、その体重を完全に相手に預けてしまおうとしたその時だった。古い機械が軋む音をたてながら、がくん、と揺れた足元に、一瞬何が起こったのか分からなかった。突如、胃の底がぶわりと熱くなったかと思うと、繋いだ手も、大きな手が滑る腰骨も、反対に此方から添えていた左手も、そして密に触れ合っていた唇も、相手と触れ合う全ての箇所が蕩ける程に気持ち良くて。パチパチとスパークする視界に、それまで精々湿った吐息を時折漏らすだけだったにも関わらず、まるで仔犬のような鼻にかかった声を漏らすと。切れて落ちた銀糸が胸元を濡らすのも気にせずに、ギデオンと顔を見合わせ。未だ先程の衝撃に呆然としたまま、こてん、と首を傾げる。そうして、酒に酔ったような表情で大好きなアイスブルーを見上げながら、ふにゃりと小さく微笑むと、強請るようにもう一度右手を握り直して。 )
……あ、は。気持ち良かった、ね……?
(──ずっと後になってわかったことだが、この一種のアブノーマルプレイは、魔法適性が高い者ほど習得が早いらしい。ヴィヴィアンが小さな悦をすぐにも極められたのも、ギデオンの方はまだそこまでの快感に襲われなかったのも、つまるところそういうことだ。しかしながら、戸惑うギデオンが理性を取り戻していられたのは、結局はごく一瞬。不思議な快楽にふわふわ酩酊した恋人の、その表情、その仕草、その声音を向けられて、脳の奥が激しく焼け落ちない男などいるだろうか。元々、熱烈な睦み合いに溺れていた矢先なのだ……ギデオンの視線はわかりやすいほどに揺れ、その瞳孔が暗く広がり。我知らず喉が鳴り、言い様もなく体温が高まり、呼吸は浅く、早くなる。……今はまだ追いつけぬ身だというのに、それでも、ヴィヴィアン自身の媚態のせいで、彼女と同じくらいに興奮しているこのざまだ。それを己で宥めるべく、一度目を閉じ、静かに息を整えたのは。数日前の反省、同じ過ちを犯したりして彼女を怖がらせないため。──否、違う。本当のところは……この摩訶不思議で甘美な遊戯を、絶対にやめたくなかったからで。)
…………、
(もう一度、小さく唾を呑んでから。どこか眠たげにも見えるほど蕩けたまなざしを向け、ようやくのことで微笑み返すと。すぐにまた目を閉じながら、少し頭を屈めるようにして額を寄せ。ささやかな呼吸すら感じ取れるほどの距離で、静かに手と手を握り合う。今のギデオンは要するに、そうと知らずに──知ったところで同じだろうが──相手のお望み通りのまま、ただ目の前のヴィヴィアンに集中しきっている状態。掌に感覚を集め、己の魔力弁らしきものをどうにか制御下に置いてみせると、今度はそれを使い、彼女のものをもう一度探り当てようと試みる。……だが、やはり至難の業のようだ。怪我で動かなくなっていたあの時と違って、もうお互いの魔力弁がとっくに回復し、その流動性を取り戻しているせいだろう。何度かそれらしい感触が掠めたものの、上手く捕まえておけないようで。「こら、そんなに元気に逃げ回らないでくれ」なんて、相手もその気はないだろうに、笑んだ声で冗談を。そうして戯れ合いながら、それでもその手元だけは、あの時の陶然としたヴィヴィアンをもう一度呼び起こすべく、真剣に探し続けるのだ。その執念を厭らしく思われたとて、仕方がないことだろう。──結局それ自体が楽しくなって、飽きもせず長い間探り合っていた時のこと。不意にようやく巡り合った魔力弁が、もう一度上手く食み合う感触に。無言のまま見開いた目を、そっと相手と合わせると。その視線を艶っぽく伏せ、少し息を震わせながら、魔力を流し込みにかかる。──今度はギデオンも、ごく小さく声が出た。押し殺していたのに思わず漏れ出たような、無性音に近い声だったが。どろりと──溢れるように──己の魔力が直接恋人の中へ吐き出される感触に、今はまだ鈍い快感が、それでも鳩尾からじわじわと立ち上る。肉欲のそれと限りなく似ているが、あれとはまた違う──もっと深く、もっと熱く、もっと穏やかなそれのようだ。触れ合っている掌同士だけでなく、心臓が直接蕩けるような感触を覚えるのは、相手も同じことだろうか。「……ヴィヴィアン、」とわけもなく名を呼んだのは。己の味わう混乱交じりの快感を、自分にとって確かな存在を頼りに、まっすぐ受け止めたかったからで。)
( この時、ビビが絆されていたのは、未知の快楽にだけではなく。あのギデオンが素直に自分に甘えてくれたこと。そして、それを自分も拒絶せずに応えられたことが、心底から嬉しくて堪らなかったのだ。それもお互いの魔素を交換する、いつも仕事でやっているそれと変わらない健全な行為が。ただそのやり方を変えただけのことが、こんなにも温かで満ち足りた気持ちになれるものだったのだと……今度、アリアにも教えてあげようかなぁ、なんて、頓珍漢なことを考えていたものだから。ギデオンの瞳がただ甘いものから、此方を捕食せんとするそれに変わりゆくことなど気づきもせずに──早く、早く、と。瞳を閉じた相手の事情など思い知らぬまま、無防備になった唇、頬、耳へと軽いキスを繰り返すと、繋いでいた右手をゆらゆらと無邪気に揺らして続きを強請り、 )
──逃げてないですけど、擽った、くて……ふふ、ギデオンさんこそ、ちゃんと捕まえてくださいよ、
( そうはいっても、慣れぬ行為に中々上手くはいかぬまま。ギデオンの意識の全てを、此方に捉えて離さぬ快感にうっとりと微笑み。時折、瞳を閉じている相手の顔のあちこちを悪戯に?ばんでは、相手の集中力を掻き乱して遊ぶこと暫く。不意に合った魔力弁に、「あっ」と期待の色がこれでもかと混じった吐息が漏れて、此方を射抜くアイスブルーが、色っぽく伏せられる光景に身体が震えた。──とろり、とろりと流れ込んでくる量を超えないように、繋いだ手に意識を集中させると、余計に感覚が鋭くなるようで。じわじわと溜まる快感に、表情に気を使ってる余裕もなくて。合わせた掌がズレないよう、そっと静かに抱きつくも。これで人心地つくどころか、触れ合う面積が増えたことで益々快感は増すばかり。頭は茹だってクラクラするし、布越しに触れ合う全ての部分と、それよりもずっと酷い熱が臓腑に溜まって、今にも全身溶け出しそうだ。じくじくともどかしく溜まる快感に、時折溜まりかねた腹や肩がぴくぴくと跳ねて、その度に漏れる吐息を堪えているつもりで、布越しの肩へ熱く吹き込んでいるのだからまるで意味が無い。とはいえ、初めての刺激にも段々と慣れて、ぎゅっと閉じていた瞳を、ゆっくりと持ち上げようとしたその時だった。──がくん、と。急に視界が揺れたかと思うと、繋いでいた手が大きくズレてしまい。ギデオンの胸の中、最初こそ何が起こったか自分で分からず、ただぼんやりといつもより早い呼吸を繰り返す。しかし、徐々に思考がクリアになれば、嫌でも理解はあとから着いてくるもので。まさか、腰を抜かしたのだと──いくら大好きな人の大好きな声でも、ただ相手に名前を呼ばれた、それだけで……。その瞬間、それまで何処かぼんやりしていた桃色の頬に、月明かりでも分かるほどカッと鮮烈な朱がさして、必死にギデオンにしがみつきながら、何が違うのか、混乱のあまり寧ろ全てを白状すると。その囁かれた方の耳を抑えながらへなへなと、力なくつかんでいた腕を離して。呆れられてやしないかと、おずおずとギデオンを見上げた視線は、どこか子供のようなあどけない不安が満ちていて、 )
──……あ、うそ……わたし腰抜かして……うそ、うそ! ちがうんです、
ギデオンさんが、急に耳元で呼ぶからっ……、
(肩口に熱く吹き込まれる吐息が、少し和らいだかと思われたそのとき。ギデオンが思わずその名を口走るなり、かくん──と。折れるように、或いは跳ねるように、ヴィヴィアンの身体がわかりやすく反応し、それまで絡み合っていた魔力弁が呆気なくほどけてしまった。自然、目を閉じて快楽を追い求めていたギデオンも、まだ息の浅いまま、腕の中の恋人を無意識に抱きとめたまま、再びぼんやりと彼女を見つめ。──余裕がなくて気づかなかったが、今の数十秒ほどの間、相手はギデオン以上にたっぷり蕩けきっていたらしい。その余韻が未だ色濃い花のかんばせが、それでも今や羞恥の色に取って代わられ、明らかにおろおろと恥じ入っている様子である。妙な反応を示したことではなく、些細な何がしかに強く反応してしまったこと、そちらに混乱しているようだ。……その、純真無垢ゆえ大きくズレた、可笑しな慌てようを見て。ギデオン自身、相手に溶け入っていた気持ちよさに未だまだぼんやりした面差しのくせに。「……っふ、」と、いつもの自分を取り戻したの如く、顔をくしゃくしゃにして笑い始め。)
っく……“腰を抜かした”か……そうか、そうだろうな。くくっ……
(無論、呆れちゃいない。呆れちゃいないが──まったく、随分と可愛らしい表現をするものだ。「悪い、悪い」と白々しく謝りながら、不安げな様子が可愛かっただけだ、別に何もおかしくないさと、安心させるように言い聞かせて。……今のが何に等しいのか、今この場で教えてしまうのは、内心躊躇われた。あの怖がりなヴィヴィアンが、“これ”となれば、こんなにすんなりギデオンを受け入れてくれたのだ……少しの不安も抱かせたくない、この先も安心して身を委ね続けてほしい。故に、ほどほどで笑いの発作を収めると、まだ足腰に上手く力が入らないだろう相手を、しっかりと支え直し。余韻の残る左手で、相手の愛らしい額を二、三撫でてやりながら、酷く満ち足りたような声で、強請るような物言いを。)
なあ、今の……良かったな。
やり過ぎると体に毒かもわからないから、弁える必要はあるだろうが。
帰ってからも、また時間の取れる時にでも……もっとゆっくり、おまえと試したい。……いいか?
じゃあ、笑わないでくださいよ……!
( ビビとて経験こそないが、今年で24になるいい年をした成人女性である。そういう行為の果てに起こるらしい現象のことは、知識としては持ち合わせていたものの。幸か不幸かビビの中で、このあたたかな"健全な行為"と、淫らな象徴であるソレは繋がらなかったらしい。その上、無意識ではあったが、その初めての経験の余韻も、あまりに突然のこと過ぎて。未だ快楽を拾うよりも混乱が勝って、楽しげに肩を揺らし出す恋人への怒りに霧散してしまい。ギデオンの『おかしくなんてない』という言葉にホッと表情を緩めながらも、じゅわりと潤んでいた瞳をキッと釣り上げたかと思えば、意地悪な彼の分厚い肩に柔らかな一撃を入れずにはいられないのだった。
そうして、暫くは唇を尖らせたまま、ぷくぷくとご立腹の様子で相手に甘え倒していたものの。ギデオンにされるがまま、大人しく抱え直され、大好きな掌に額を二、三撫でてもらえば。けろりと機嫌を治してしまって、自らもその腕を相手の腰に回すと──それは、例の如く、なんの悪気もない、優しい恋人に甘えただけの一言だった。ギデオンの甘い声に、最初はただ静かにこくりと頷いてみせてから。不意にもじもじと俯いたかと思うと、周囲に誰がいる訳でもないのに、相手の耳元に唇を寄せ。うふふ、と小さくはにかんでから、語尾にハートでもつきそうな、減量中のつまみ食いの様な呑気なテンションで告白をして、 )
私もしたい、です、けど…………ねえ、ギデオンさん。
人から魔素を貰うのって……こんなに気持ちいい、ものなの……?
私、弁えられなくなっちゃいそうだから、そしたらギデオンさんが止めてくださいね、
──………
(本当に……本当に、相手はどこまで、無自覚に煽ってのけているのだろう。耳元にそれはそれは甘い囁きを吹き込まれたギデオンは、彼女の目に見えぬところで、一瞬途方もなく遠いまなざしを投げかけた。──だが、もうそろそろ、慣れっこだ。ヴィヴィアンは何度も何度も、こうしてギデオンを無自覚に煽る。それに己は、ぐちゃぐちゃに振り回されながらも、惚れた弱みで理性を利かせる。その一連の流れについては、もうお約束のようなものとして、親しみすら湧いているほどだ。これからも、彼女がそれに臨めるようになるその日まで、ふたりでずっとこれを繰り返すのだろう。しかし思えば、彼女のためにそう在るともと約束したのは、他ならぬギデオン自身。ならばこのもどかしさは、結局のところ、自業自得としか言いようがなく。
そう諦めをつけ、もとい、腹を括ってしまえば。目を閉じながらごく小さくため息を零し、顔を横に向けて。彼女の柔らかい頬に唇を軽く押し当て、ごく優しく、愛撫するように何度も滑らせる。そうして無言の承諾を済ませてから、静かに目を開け、相手と視線を絡ませると。頭を撫でていた掌を、相手の反対の頬に添え。その内心の欲望に不似合いなほど、穏やかに微笑んでみせて。)
……その代わり。
他の件では、いつかは止まってやらないぞ。
(そのあっさりと開き直った宣言は、ギデオンなりの反撃の狼煙、溜飲の下げ方のひとつだ。「他の件………?」、そう繰り返しながらこてんと小首を傾げたヴィヴィアンに、何でもないさ、と肩をすくめれば。不意にひょいと抱き上げ、数歩運んでいった先は、甲板に誂えられたベンチ、去年もふたりで腰掛けた場所。「ちょ、ちょっと! 誤魔化さないでくださいよ、いったい何の……」話、と食い下がろうとした唇は、さっさと塞いで黙らせてしまう。敏い彼女のことだ、何のことかは無意識に勘づいているのだろう。それ故理解を拒みながらも、確認せずにいられないのだ。
しかし、ベンチに腰掛け、ヴィヴィアンを膝に乗せたギデオンは。無垢で無自覚な娘のおいたを少し叱るような気持ちで、その唇の奥の奥まで、たっぷりと、飢餓感を込めて掻きまわした。緩急のリズムをつけながらも、息継ぎの暇は碌に与えてない。無論、単なる意趣返しであるだけでなく、悪だくみありきのことである。こちらのこなれた──ようやく少しだけ本気を出した──舌遣いの技も相俟って。案の定ヴィヴィアンは、ぽやん、と再び蕩けきった様子。あとあとになってこの直前のやりとりを思い出すかもしれないが、今この場で誤魔化せたなら、それでいい。そう満足げに小さく笑い、こちらの胸板にもたれかからせながら、よしよしと頭を撫でてやる。
そうして、月明かりのなかふと見つめ合い──「好きだよ、」と。大事な宝物にかけるような優しい声音で、もう一度、「おまえが好きだよ」と。繊細な話をキスで誤魔化す卑怯さには重々自覚があるけれども、ヴィヴィアンを心底大事に思っていること、それだけは再三念入りに伝えよう。その気持ちにたがえるような真似は決してしない、さっきの台詞とて、あくまでおまえがちゃんと平気になったらの話だ……そう言葉の裏で誓うように。──いつかのその日、ギデオンは心行くまで、ヴィヴィアンに甘え倒すつもりだ。だからそれまでの間だけは、せいぜい大人な紳士のふりを、彼女のために演じてみせよう。そのうち、ヴィヴィアンにもわかるときがくるだろう……晴れて恋人同士になった今、ギデオンの胸の内には、きっと彼女の想像以上に、大きく重たい感情が渦巻いていることを。ひた向きな思いも、邪で浅ましい欲も、今となっては、その全部が、世界中でヴィヴィアンだけに捧げるものだ。しかし今はまだ、知らなくていい。これから何年も……もしすれば、残りの人生すべてをかけて、相手に伝えていくのだから。)
……楽しかったな、訓練合宿。
そのうち、二、三日の休みを一緒にとれたら、今度はふたりで──どこへ行こうか。
(川のせせらぎ、森のざわめき、優しい月明かりに満ちた世界。その片隅でふたり仲良く、体温を溶かし合いながら。──1週間の賑やかな小旅行は、あっという間に幕引きを迎えた。
以前のギデオンにこの光景を教えたところで、そんな未来が来るなんて、きっと絶対に信じなかっただろう。そもそも自分の変貌ぶりに、そいつは誰か別人の話じゃないか、なんて、真顔で抜かしたに違いない。それくらい、当時のギデオンは、己がヴィヴィアンに寄せる想いにほとほと無自覚だったのだ。──そう、例えば、5カ月前も。)
──参ったな……
(偉大なるカダヴェル山脈より南。質朴剛健ながらも美しく、今は年明けの雪化粧が施された街キングストン。その中心部からほど近い場所に臥城を構えた、カレトヴルッフのギルドにて。早朝の明るい日差しが差し込むロビー、そこにはいつもより大荷物を抱えたむさくるしい連中ががやがやと賑わっている。しかしその奥、自身もしっかりと旅装を纏いながらも……なぜか物憂げに眉間の皴を深め。手に持った一本の鍵を難しい顔で睨んでいるのは、ベテラン戦士のギデオン・ノースだ。
──畜生、ミスった。こういう些事はきっちり済ませるはずの己が、すっかり失念しきっていたとは……。今日から始まる野営続きの探索クエスト、その主戦力として、ギデオンもまた、今朝いきなり駆り出されてしまったのだが。ギデオンの住んでいる単身者用集合住宅、その大家が体調を崩して入院しているのを、すっかり忘れきっていた。あの爺さんが今動けないということは、留守中のギデオンの家の様子を見てくれる者が、誰もいないということになる。それは困る……非常に困ったことになる。
遠征自体は1週間かそこらだから、別にシーツ干しだの掃除だのができないことを憂いているわけではない。──真冬の、特にこの年明け数ヶ月の時期は、暖を求めた悪性妖精が、ひとけのない家を狡猾に見定めて、勝手に上がり込み悪さをするのだ。おまけに確か……食糧棚に、肉や野菜を入れっぱなしだった。今日は午後には帰ると思って、昨夕路上で安売りされていたそれらを、買い込んでおいたせいだ。腐って蛆が湧くのも嫌だが、腐肉の放つ魔素につられて、厄介極まりない魔虫の類いを引き寄せるのは、もっと嫌な展開である。処理するのも面倒だし、家を傷めるようなことがあれば、爺さんに申し訳が立たない……修繕費だってかかる。とにかく、至急対処が必要だ──なのに、そのあてがないときた。
東広場発の馬車に乗るのが、今からたった十五分後。とてもじゃないが、自宅に戻って隣人に頼む暇はない。かといって、ギルドの誰かに留守中を頼むとなると……と見渡しながら、望みのなさにため息をつく。周りの連中はご覧の通り、ギデオンと一緒にクシャロ湖へ旅立つ奴らばかりだし。今日に限ってマリアは非番。そもそも彼女は苦労多きシングルマザーで、妖精除けのチェックをしてくれなどという大迷惑は頼めない。独身の友人連中はまだギルドに来ていないようだし、かといって、そこらの新人に私用を頼むのは駄目だ。己の肩書がなまじ少々特殊なばかりに、職権濫用だと問題になる。ほかに目につく人間といったら、昨夜よっぽど飲んだのか、掃除用バケツをほっかむって床に寝っ転がっているマルセルとフェルディナンドだけ。こいつらに鍵を預けるくらいなら、ヘカトンケイレスの方がマシだ。
「何かあれば、お隣か知り合いに留守を頼んでおくように」。大家の爺さんにも、そう事前に言われていたのに。それを忘れて咄嗟に遠征を引き受けた、その迂闊さのせいでこの窮状だ。いったいどうしたものか……と、声を出さずに呻きながら。カウンターに肘をつき。片手で頭を抱え込むその姿は、ほとほと困り果てているとった有り様で。)
( 若い女の声にならない叫びが、夜の甲板にしっとりと響く。聞き捨てならない宣言への不満は、大きな口に食べられてしまって。熱い舌にグチャグチャに掻き回されると呼吸が出来ない……訳でもないのだが、声を出さない呼吸の仕方が分からない。必死に息を我慢して、我慢して──それでも、長いキスに耐えきれなくなって、何度も何度も、耳を塞ぎたくなるような声をあげさせられて。その内なんだか、頭の奥が痺れたかのようにぼんやりとしてしまって、いつの間にか収まっていた胸板と優しい掌に、すり……と顔を頭を擦りつけながら。耳も腰も、全身砕けて溶けだすような言葉に、ニコニコと相槌を打っていたものだから。ふと相手が零した質問に──どこへ行こうか……。海はもう行ったから、今度は緑が綺麗なところがいいかなぁ。秋になったら沢山美味しいものが取れるだろうし、きっとギデオンさんが喜ぶだろうな。それとも、もっと都会の街中で、今度は朝から一日中ショッピングデートが出来たら。今度は私がギデオンさんに似合う物を見つけてあげたい。でも、本当は私、今の家が1番好き……朝ゆっくり起きて、ギデオンさんの朝ご飯を食べて、人目を気にせず ずっとぎゅってして、好きなだけキスもしたいし、夕飯はギデオンさんのリクエストを聞くの。ううん、でも私ギデオンさんといられるなら結局何処でもいいなあ──なんて、脳内で考えたこと全て口から垂れ流しになっていたなんて気づきもせずに。もうこの人がいなかったら生きていけないかも、なんて。たった数ヶ月で弱くなってしまった己に苦笑して、それから数分後か数十分後か。先程誤魔化してくれた腹いせに、そろそろ船室に戻ろうと促す相手にしがみつき、抱っこで連れてってくれなきゃ戻らない、と駄々を捏ねたその結果。涼しい顔をしたギデオンに本当にやられかけたのを、慌てて飛び退くその瞬間まで、その心地よい温もりをひしと掴んで絶対に離さなかった。 )
──おはようございまーす! あっおはよう……ええ、新年おめでとうございます、
( そんなビビもまだもう少し強かったはずの年始、カレトヴルッフ。忙しい冒険者たちの中には、まだ新年あけまして初めて顔を合わせる連中もチラホラ混じる厳寒の季節。今の時期のメイン収穫物になる、熱で溶ける魔物の素材を駄目にしないよう、室内にしてはやや低めに温度設定されたギルドのロビーに、鮮烈な赤を靡かせて颯爽と入ってきた娘は、まずいつもの掲示板に向かおうとして、カウンターに愛しの相棒を見つけると。その華麗なターンに舞うマフラーの優雅な様に、その贈り主を知っていて尚、目を惹かれずにはいられない男達の多いこと。しかし、そんな男たちの淡い恋心など露知らず、冬でも元気一杯の娘は、今日も今日とて片思いを公言して幅からない相棒へと一目散に飛びついていく有様で、 )
おはようございます、ギデオンさん!
今日はもうご予定決まってますか? まだでしたら一緒に行きたいなあって……
(それはまさに、清かに吹き渡る桃色の春風。若手ヒーラーの明るい声が飛び込んでくるなり、肌寒かったロビーの空気は、明らかにがらりと様変わりした。あれっ、今四月だっけ。いやいや、ついこないだ年が明けたばかりだろうよ。けどよぉ、なんだか急にぽかぽかとあったかく……なんだか辺りに花まで咲いて……。物々しい装備をした大柄な男たちは、その見てくれに似合わぬ寝言を、めいめいふわふわ口走る始末。瑞々しい挨拶を振りまくマドンナが、右に左に歩くたびに、がん首揃えて惚けるざまだ。しかし次の瞬間、男たちはその全員が全員、醜いオークのような顔でぎりぎり歯ぎしりをする羽目になった。──うら若いヒーラー娘が、ぱあっと嬉しそうな顔をして駆けだしていった先。その赤い首輪をつけた張本人のくせして、彼女を振り返りすらしていない、気障な野郎がいたからだ。)
……ん、ああ、おはよう。
(カウンターにもたれていたギデオンは、飛びつかれて初めて気がついたような様子で、相手の方を振り向いた。その気怠げな表情には、さしたる感動も窺えない──あのヴィヴィアンが親密に戯れかかっているというのに、なんと傲慢な態度だろう。しかし去年までと違い、たじろいだり疎んだりする様子もほとんど窺えないないことを、観察眼のある何人かは見抜いてしまったかもしれない。
そんな周囲の注目はまるで目に入らぬ様子のまま、「悪いが、俺はこれから数日がかりの遠征だ。急に頼まれた仕事でな……」と、両手を軽く広げながら、ギルドのロッカーから引っ張り出した遠征仕様の格好──いつもの皮鎧より、幾らか本格的な武装──を、相棒に披露してみせる。それから不安げに問い質したのは、今朝の自分の迂闊ぶりを反省していたがゆえのもの。以前聞いた相棒の仕事の状況を、今一度確かめるような口ぶりは、しかし。何か別の考えに至った様子で、最後まで続くことはなく。)
おまえの仕事に差し障りはなかった、よな?
たしか毎年この時期は、当日中の単発クエストを引き受けることが多い、って……話……
──……その装備も格好良いですね、大好きです!!
( 「…………。」今日も今日とて一方的に意中の相手に抱きつく娘と、それを引き剥がすでもなく、涼しい顔で会話を続ける中年男。軽く腕を広げたギデオンと、今日もノルマ達成とばかりに腕を離して、やれやれと体勢を戻しつつあったビビとの間に、なんとも言えない間が流れた。その元凶である会話の流れをぶった切った告白から一転──だって、つい、格好良かったんだもん、と。咳払いしながら、相手の隣のカウンターに肘をついたビビは、一抱え程のサイズもある魔鳥の卵を抱えるジェスチャーをしてから、不安げな相手を力付けるように肩を竦めて、真っ直ぐなエメラルドグリーンで相手を射抜いて。この時、普段滅多に狼狽えない相棒の悩みの内容にまで、見当が着いていたわけでは全くない。しかし、春からふたつも季節が回って、相手が弱っている時の表情は、なんとなく分かるようになっていたから。何でも一人で抱え込もうとする癖のある相棒に、にっこりと有無を言わさぬ笑みを向ければ。何か困っていることはないか、ではなく、何をして欲しいか、という聞き方をしたのは、人間もまた、可能な限り弱みを隠そうとする動物であることを前提とした、喫緊の傷病者対応に追われる職業柄で。 )
じゃ、なくって……はい、差し障りないですよ、コカトリスの卵採集です!
昨日ドニーさんに聞いた時は、まだ空いてたみたいだったので、一緒に行けるかなって思ってたんですけど……それで、私は何をすれば良いですか?
……話が早くて助かる。
(未だ躊躇う様子のあったギデオンの表情は、ヴィヴィアンの聡明な瞳と頼もしい台詞を前に、あっさりと霧散した。“いざというときは素直に相棒を頼る”、以前はなかったその思考回路が、ようやく身についたものらしい。グランポートからおよそ半年、彼女が根気強く飼い慣らしてきた成果である──などとは、当の本人は知る由もないが。「俺が遠征で離れる間、悪いが家の様子を見てほしいんだ」と、単刀直入な一言から切り出したのは、ごく簡易な説明で。)
いつもなら大家の爺さんが面倒を見てくれるんだが、今は内臓を悪くして入院中でな。古い建物だから、冬の時期は妖精除けが必要で……1週間も留守にしていれば、奴らに棲みつかれる恐れがある。ついでに言えば、生ものを置いてきたままにしたから、そいつらも処分してくれるとありがたい。傷んでなけりゃ好きに持っていってくれ。
だから今日と、それからの二、三日に一遍ほど、簡単な換気とチェックを……要は、自然にしていれば勝手に残る人の魔素を、代わりに残していってほしい。
(──去年契約書に書いたのとは違う住所に移ってるが、方向はお前の下宿と同じだ。おそらく歩きで二十分くらいか。クエストで遅くなりそうな日は無理をしなくていい、あくまで余裕のある時に──と。告げながらさらさらと、受付にあるペンとメモ用紙を借りて書き出したのは、なるほどここからそう遠くない現住所。大通りを挟んで南側、ちらほらと畑や掘っ立て小屋も混じる、地価の安いエリアの一角だ。ペンのキャップをかちりと戻し、メモ用紙を相手の方に滑らせると、卓上に置いていた古い合金製の鍵、これも相手の手元へと。それから指を二本立てたのは、少額ではあるものの、手伝い分の給料としては充分だろう金額で。)
報酬はきちんと後払いする──こっちのけじめだ。低級クエスト相当分の現金か、それが受け取りにくければ、おまえがよく仕入れるポーションの基礎材料の現物辺りで。
何事もなければ一週間後には帰るから、鍵はその時手渡しでもよし、受付のマリアやエリザベスに預けておくも良し。……こんなところでどうだ?
なんだ、そんなこと……
( きょうび八面六臂の大活躍を見せる、ベテラン剣士ギデオン・ノースが、一体全体こんなに真剣な顔をして何事か……と身構えていたのが、その口から気まずそうに語られる内容の、なんと平和で所帯染みていること。思わず拍子抜けして、小さく吹き出しながら鍵を受け取れば。──そっか、秋頃に引越ししたって言ってたっけ、と。確かに通いやすくなった住所に目を通し。ふぅん、と色々浮かび上がる野望は取り敢えず置いておくにしても、今回、やけに素直に此方を頼ってくれた相棒に、少しは成長したかと思って満足気に微笑みかければ。報酬交渉を持ちかけて来た相手に前言撤回──そんなに私を頼りたくないか、と呆れたような、寂しげな視線をじとりと向けかけようとして。……此方の思いになど、微塵も気が付いていないのだろう。どこまでも生真面目な表情で指を立てている相棒に、ついつい怒れず苦笑してしまうのだから。結局──おぉい、とギルドの入口の方から聞こえてきたギデオンを呼ぶその声に、先に音を上げたのはビビの方で。その頑固な背中を押してやる振りをして、その無防備な耳の裏に、ちゃっかり悪戯な唇を落としてから、その背を軽く叩いて送り出したのが、約一週間前のことだった。 )
──ほぼ通り道なんだから気にしなくていいのに……ハイハイ、2本でも1本でも、薬草でも、ギデオンさんのお気持ちが楽になるなら幾らでも!
ほらほら、呼ばれてますよ……1週間後はお部屋で待ってますから、ギデオンさんに会いたいので!
遠征頑張ってくださいね!
( ──うーん、流石にやり過ぎかなあ。時刻は夕方、冬の弱気な太陽も沈みかけの午後5時を回った時刻。約1週間程前。この単身世帯用の簡素な部屋の主、ギデオン・ノースに此処の管理を任されて、最初は本当に妖精を追い払うだけのつもりだったのだ。ビビを信用して任せてくれたギデオンの信頼に応えるべく、本当に必要最低限以上の干渉は辞めようと。……それが、2回目にこの部屋を訪れた3日程前、2日前も部屋を訪れたばかりだというのに、虎視眈々と隙を付け狙う冬妖精の強い気配に──彼らは鉄と火の魔素を忌嫌う。それ故に、鉄の薬缶にたっぷりと水を入れ、寂しい暖炉に火を灯して沸かして追い出してやろうとした途端。この寒い時期にいつから使ってなかったのやら、もうもうと舞い上がった黒い煤に、汚れた古いマントルピースを拭ったのが最初だった。散らかるほど物のない寂しい部屋は、しかし建物自体が恐ろしく古いのだろう。天井を渡る梁には埃が溜まって、明り取りの窓ガラスは鈍く曇ってしまっている。薬缶の火を見守っている間、目に付いたそれ等をはたいて磨いたなら、次々と気になり出す汚れに、気がついたら翌日、折角の休日を返上して、何故か自主的に大掃除をしている始末だった。まあ、──鍵を渡されて、部屋を掃除するなんて、なんだか彼女みたいじゃない……? なんて、自己陶酔がなかったとはとても言えない訳だが。前の住人が喫煙者だったのだろう、黄色を通り越してオレンジ色にくすんでしまっている古ぼけた壁紙。立地上どうしても吹き込んでしまう休耕地の土は、それそのものが粘着質で、日照時間が短い関係で湿度が貯まりやすい部屋の床をベタつかせ、よく分からない古い汚れを巻き込んで真っ黒になっている。更に、それ等を磨きあげるために窓を明け放てば、サッシの汚れも気になってしまって……と。気がつけば、見違える程の真っ白な色を取り戻した壁紙の前、よく磨かれて周囲を反射する茶色い床の上、『目に付いたところだけ』とはとても言えない程綺麗になってしまった部屋の中で。それでも、机やら寝具やらプライベートなあたりは避けたつもりだが、今日帰ってくる予定の相棒への言い訳を考えること半日。そんな呆然としたビビの手元、こちらもすっかりピカピカになってしまった暖炉で、先程からコトコトと良い香りをさせているのは、手慰みに作った野菜のポトフだ。遠征前に精をつけるためと、手の込んだ豪華な料理が振る舞われがち。その上、いざ遠征が始まってしまえば、保存の効かない生野菜はほとんど食卓に上がらず、毎日毎日冷たく硬いパンと、保存食の塩辛い肉が何日も続くなんてこともザラ。ビビは遠征が終わると、まず真っ先に優しい味の野菜スープが飲みたくなるのだが、ギデオンはどうだろう。甘い越冬キャベツを大きく切って、近所の朝市で手に入れたローリエとタイムでじっくりコトコト、肉に味付け程度のチョリソーを使ったそれは、最悪呆れられてしまった時のご機嫌取りだ。そんな愛情やら、下心やら、大人の事情やら、とにかく色んな物を一緒くたに煮込んだ鍋の前で、(これも立て付けが悪く、開け閉めする度大きな音を立てていたところを、蝋を塗って滑りを良くした) 重い玄関扉が開く気配に、ゆっくりと振り返れば。無事帰ってきてくれた愛しい相棒の姿に、今この瞬間ばかりは、後ろめたかった筈の気持ちも吹きとんで。赤い花の刺繍が入ったエプロンで手を拭いて、そのよーく暖炉に炙られ温まった手で相手の手をとると、グツグツの鍋の煮立っている温かな暖炉の方へと引っ張っていこうとして。 )
……おかえりなさい、ギデオンさん。
お疲れ様でした、寒かったでしょう……こっち来て温まってくださいな。
部屋でって、お前……
(ひとたびこちらの扱い方を心得た彼女は強い。ギデオンの提案をそのまますんなり受け入れながらも、隙を逃さぬ可憐な親愛表現やら、さりげなく織り交ぜるちゃっかりした意思表示やら。そのただでは聞かないしたたかぶりに、ギデオンが遅れて異論を唱えようとする頃には、ぽんぽんとあやすように──或いは有耶無耶にするようにして、温かく送り出される始末で。未だ何か言いたげな顔をして彼女を振り返るものの、さりとて、今朝はもう時間がないのも事実。結局ため息交じりに頷けば、軽く手を振って別れを告げながら歩きだすことにする。そうしてギルドのエントランスを潜り抜ければ、途端に北からの空っ風に吹かれるも──先ほど贈られた何かしらのおかげで、この季節の寒さをあまり感じずに済んでいることに。己に疎いギデオンは、ついぞ気づかないままだった。)
(さて、それから1週間後。受付のデスクの書類からふと視線を上げたマリアは、帰還したギデオンが我知らず浮かべていた疲労の濃い顔を見て、いつもなら向ける当たりの強さを引っ込めてくれたらしいのが、その表情から読み取れた。「……ヴィヴィアンの居場所を知らないか?」と尋ねれば、こちらの提出した書類に判を押してまだギデオンに戻しながら。「あなたがクエストに忙しくて忘れてるかもしれないって、伝言を預かってるわ。……『先に帰ってる』、だそうよ」と。どういうことかと問い質したそうにしつつも、あくまで事務的な返答にとどめる様子。そういえばそんな話だったな、と思い出しながら、軽く手を掲げるのみでマリアに別れを告げて立ち去る。時刻は16時を回った頃──もしや、随分待たせているのではないだろうか。しかしそれでも、諸々やることはやらねばならない。まずはしっかりと、高難易度クエストからの帰還後に義務付けられている魔法医の検診を済ませ。異常なしと太鼓判を押されれば、ギルドの二階のシャワー室で熱い湯を浴び(自宅にそんな贅沢な設備はないので、大概はここか街中の公衆浴場に行く習慣だ)。これでやっとさっぱり生き返れば、諸々の報告書を追加で書き上げ、或いは他人のそれに目を通し。ギルドマスターにも簡単な報告を上げて、これでようやくクエスト完了。持ち帰って読む書類や、1週間前にギルドに残した古い服を鞄に詰めると、(腹が減った……)なんて、呑気な考えに浸りながら。夕暮れのなか、途中幾つか買い物に寄りつつ、ようやく家路についたのだった。)
(──そうして、懐かしのというわけでもない自宅の、冷たいドアノブに手をかけたとき。(おや?)、とは思ったのだ。いつもならぐっと力を込めて押さなければならない扉が、何の手応えもなくするりと動いた。もしや部屋を間違えたか、なんて訝しんだ思考はしかし、室内からふわりと押し寄せてきた暖気、そして何やら非常に旨そうな匂いで、たちどころに吹き飛んでしまう。「……」と、思わず様子を窺うように、慎重に一歩立ち入ったギデオンの目前。はたしてぱたぱたと近づいてくるのは、愛らしいエプロン姿をした若い女性──1週間ぶりに顔を見る、相棒のヴィヴィアンだ。
この時点でさえ、ギデオンは軽く目を見開いて、全く見事なフリーズを晒してしまったわけなのだが。その温かく柔らかい手に捕まり、優しく促されるまま、家庭的な声に思考が麻痺しきるまま、室内を二、三歩歩けば。今度はそこで、再び呆然と、根が生えたように立ち尽くしてしまう。──家の中が、がらりと様変わりしていた。普段のギデオンがほとんどねぐら代わりにしか使っていない此処は、粗末なベッドと古い椅子、やや傾いたテーブルに、傷の入った低い棚がひとつふたつあるくらいで、あまり居つかないために埃も影も溜まりきっている、物寂しい場所だったはずだ。それがどうして──家具や私物といった類には、気遣いから手を付けられていないのだろうが。煤けきっていたマントルピースも、埃っぽかった天井の梁も、外を見通せぬほど曇っていた窓ガラスも、黒ずんでいた床も、皆ぴかぴかに磨き上げられている。薄汚れていた壁紙は真っ白だ、まさか張り替えたのだろうか。以前は馴染み過ぎて気づいちゃいなかった、かびくさく湿気た臭いもない──今更気づいたが、あれは暖炉が汚れていたせいだったらしい。それが今や、非常に清潔で爽やかな……居心地の良い、あたたかい住み家になっている。
自分が留守にしている間、どうしてここまで家が変わったのか。その答えに自然と行き着くなり、他にいるはずもない犯人をさっと振り返り、少しおっかない顔で、何事かを言おうと口を開きかけた……ものの。「……、」「…………、」と、肝心のお小言が、ろくに喉元から出てこないようだ。感謝すべきか、怒るべきか、呆れるべきか、激しく混乱しているらしい。おまけに先ほどから、真横の暖炉から漂ってくる胃をくすぐるような匂いで、ろくに集中しきれておらず、何ならちらちらとそちらを見てしまうほどで。結局、ギデオンにしては雄弁な百面相を無言でぐるぐると繰り広げるうちに、間の抜けたタイミングで腹の虫が鳴くものだから、がっくりときまり悪そうに片手で顔を覆い隠し。絞り出すように言いながら──周囲のあからさまな変化について、今はいったん保留するつもりらしい──まだ温かい紙袋を片手で突き出す。そうして、かしいだテーブルをベッド脇に引き寄せ、薄いシーツの上に腰を下ろしたのは。この家に椅子は一脚しかない、しかし独身女性の後輩を己のベッドに座らせるわけにいかない、そういった思考による頑とした構えのようで。)
…………夕食を……買ってきてある……
これと、そこので……飯にしよう……
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