雪月桜 2017-06-18 01:44:33 |
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「君みたいな人は珍しいね」
銀の十字架が、男のシャツから見え隠れする。
目の前の優男は、賞金首とは思えないほど穏やかな表情で、青年に銃を突きつける。
息を飲む青年を目の前に、男は優しく囁いた。
「でも、残念ながら君に僕は狩れないよ。それじゃあ、おやすみ」
男の指先が引き金に触れた。
銀の十字架を持つ男。
その男の冷めた瞳には睨みつける青年だけが映っていた。
その日青年は古びた喫茶店のカウンターで、珈琲を飲んでいた。
その青年、兎月砂句(ウツキサク)はある人を待っていたのだ。
正確には待ち伏せていたと言うべきだろう。
冷めきった珈琲をソーサーに乗せ、兎月は再度黒色の手帳を開く。
【リストナンバー5723、十字架の男、本名不明、年齢等一切不明、胸元に銀の十字架のペンダントを所持、アジア系とのこと、写真送付】
手帳に挟んだぼやけた写真と、宛にならない情報を元に兎月が十字架の男の手がかりを得たのは、つい三日前の事である。
(これでガセだったらあの情報屋、捕まえて突き出してやる)
兎月達の住む国、木斬(ギザン)には今から五十年ほど前に、賞金首制度と呼ばれるものが作られた。
元々国が制定していた軍というものもあったのだが、八十年前に起きた大災害で軍は機能が著しく落ち、国民の信頼も地に落ちてしまったらしい。
兎月自身、この世に生を受けたのは今から二十二年近く前なので詳しくは知らないが、両親から聞いた話によると『災害を起こしたのは軍』らしく、それが事実なら信頼を失うのも分からなくはない。
だが『軍が国民の信頼を失う』と言うのは、裏を返せば『取り締まる者がいなくなる』と言っても過言ではない。
軍が力を失い、取り締まる者がいなくなった国は無法地帯となった。
国は荒れ、争いの耐えない日々に、国は危機感を抱いていた。
そんな中、一石を投じたのが賞金首制度である。
賞金首制度の概要は端的に言うと、賞金は国からその賞金首に見合った額が払われ、賞金首リストに乗る者は賞金を受け取れない。
リストは電子通信サイトか、役所にて随時公表される。
リストを元に捕らえた際は、速やかに役所に連絡し、現場に到着した役員に引き渡す。
これらを守り、賞金首を捕らえる者を世間では『狩り人(カリビト)』と呼ばれ、兎月もまた狩り人として生活している。
そして現在、卯月がこの古びた喫茶店で待ち伏せている相手は、狩り人側では知らない者が少ない『十字架の男』と呼ばれる高額の賞金首である。
国からの情報ではリストナンバーと通り名、ぼやけた背面写真だけと、他の賞金首達より明らかに少ない情報しか載せられていなかった。
通常、国からはリストナンバーと通り名、背格好と顔のわかる写真が公表されている。
だが稀に、情報が極端に少ない賞金首が現れる事もある。
今卯月が狙っている、十字架の男もその中の一人だ。
国のあてにならない情報と、いくつかの情報屋から買い取ったネタを元に、卯月がその男の居場所を割り出すのは苦労したものだった。
情報屋の高額なネタと二ヶ月に渡る捜索。
これがガセネタではない事を祈るような気持ちで、卯月は腕時計を見つめる。
時刻は午後二時。
卯月がニ杯目のコーヒーを注文し終えた時、店のドアベルが響いた。
「いらっしゃいませ」
店主の言葉に小さく会釈をし、卯月と椅子二つを挟むような形でカウンターに腰をおろす。
手持ちの写真はぼやけた背面写真と、顔の見えない横顔写真だけ。
使える情報はアジア系だと言う事と、首にかけているらしい銀の十字架。
あとはおまけで貰った『珈琲に角砂糖五個』というどうでも良い情報しかない。
しかし今のところ一致した男はいなかったし、卯月に出来るのはこの離れて座っている男が、十字架の男か確認するしかないのだ。
少し肩に触れる程度の黒い髪と横顔から見えた黒い瞳は、アジア系と言ってもおかしくはないだろう。
白いワイシャツから覗く首筋は薄い肌色で、微かに見えた細い銀の鎖は卯月の瞳に微かにしか写らない。
背格好は写真の男と似ているが、決定打には至らない。
この男が十字架の男なのか、卯月は判断に迷いが生まれる。
(せめてあと少し、何かわかれば…)
卯月の位置からでは、男の首筋につながる鎖の先はわからない。
そこに銀の十字架があれば賭ける価値はあるが、強引にこちらを向かせるわけにもいかないだろう。
苛立ちは募り、時間は流れていく。
卯月が苦悩している時、好機は訪れた。
男が席を外しトイレに向かうとき、偶然卯月側の窓をちらりと見たのだ。
その隙を卯月は見逃さない。
男の胸元の鎖が揺れ、その奥から銀の十字架が僅かに見えた。
男の飲んでいた珈琲の砂糖を、包んでいた紙は五枚。
間違いない、この男が十字架の男だ。
卯月は店に入るなり内装を確認してある。
出入口は店のものと、おそらくカウンター奥にある裏口だけ。
窓は填め込み式の物と、小さな小窓だけ。
トイレ内には小窓があったが、猫が通るのがやっとと言えるくらい小さいし、隣接してある納戸は掃除道具しかなかった。
そんな風に間取りを思い出していると、卯月はある事に気づく。
(そういえばあの納戸、物が多いわりに随分と片づいていたな…まさか)
卯月は自身の感を信じ、テーブルの上に数枚の紙幣を乗せ店を出る。
木斬の国の通貨は理(リ)である。
自販機の水のボトルが百理なら、先ほどの店の珈琲は六百理。
そして卯月の置いてきた代金は二千理である。
急な事のため高い珈琲代になったが、卯月の感が当たりならば惜しくはなかった。
卯月は早足で裏路地に近づく。
一度深く深呼吸をして呼吸を落ち着かせ、足音をたてないよう裏路地を覗いてみる。
路地は細身の人間が、二人横に並び立つ事がようやく出来る程度。
卯月の位置と反対側に続く道、それ以外通れそうな所はない。
あのトイレの納戸に抜け道があるとしたら、もしくは店の裏口を使ったとしても、十字架の男が出れるのはここしかない。
卯月は鼓動を押さえながら、路地裏に歩を進める。
右手は右の腰にあるホルスターに触れ、そこに存在する銀色の銃をなぞる。
意を決して卯月が路地に立つと、そこには誰もいなかった。
「なっ、そんな…嘘だろ」
右手に握った銀の銃に体温が移る。
まさか読み間違えたのだろうか。
ならば、今戻れば店の中に男がいる可能性はある。
手遅れになる前に店に戻ろうと思いを浮かべた時、卯月の背後に冷たい声が響いた。
「こんにちは、狩り人さん。いや、初めまして、と言うべきかな」
気配はなかったはずなのに、いつの間にか後ろにつかれていた。
声は先ほど聞いた声。
振り向きざまに三歩後ろに下がり、卯月は目の前の男を睨む。
「お前が十字架の男だな」
卯月の瞳には先ほどの十字架を持つ男、十字架の男が写る。
だらしなく胸元のボタンを二つほど外し、裾を出した着崩し。
銀縁の眼鏡に黒の細身のロングパンツ。
ワイシャツのポケットから取り出した新緑の髪紐を後ろ手で結うと、それと供に出した煙草を一本口にくわえた。
(なんなんだこの優男)
体型こそ卯月とさほど変わらず、背は卯月より少し高いが、その様子から高額の賞金首といったものは感じない。
たった今聞こえた冷たい声すら、現実感が薄いほどだ。
だが卯月の言葉に男は、薄笑いを浮かべ肯定ととれる言葉を並べた。
「十字架の男ね…あまりその呼び名は好きじゃないな」
紫煙を吐きながら男は頭を掻く。
「そうか、そいつは悪かったな。なんせ他の通り名を俺は知らないんだよ。良ければ名前を聞かせてくれ」
首筋に汗を滲ませ卯月は左手にナイフを後ろ手で隠し持ち、右手で銃を構える。
卯月の行動を見つめる男の瞳は穏やかなものだが、その分底がしれない。
卯月自身、十字架の男を狩るのは一筋縄ではいかないと考えていた。
国からの十字架の男を狩る条件には『生死問わず』とあった。
国から公開されるリストの仮条件に『生かして捕らえよ』と『生死問わず』がある。
ほとんどの賞金首が前者だが、リストの二割は後者であり、十字架の男も二割に入っていた。
しかし生死を問わないという事は、裏を返せば『生きたまま捕まえる事は困難』という事と言えるだろう。
だが卯月の瞳に写る男は穏やかで、攻撃性を感じない。
(それでも、今まで捕まらなかった奴だしな。生かして捕まえるのは諦めるしかないか)
卯月は左手のナイフを素早く投げ、男の右脇腹を狙いにかかる。
別に本気で脇腹を狙うつもりはなく、卯月の本来の狙いはその時に生まれる隙なのだが、この程度の攻撃がかわせないならこの男の実力も対したものではないだろう。
すぐに現れるはずの隙を狙い、卯月は右手の銃のグリップを握る。
案の定男は腰を捻る事でナイフを避け、僅かな隙を見せた。
狙い道理の動きを見せる男へ、卯月は男の頭部に狙いを定め引き金を引く。
路地に反響する乾いた銃声。
そして卯月の瞳に写ったのは、先ほどから半歩横にずれた位置に立ち、涼しい顔をして煙草をふかす優男だった。
「質問の最中に攻撃とか、マナーがなってないな」
男はナイフはもちろん銃弾すら掠めた様子がない。
それどころ緊張感もなく、卯月に微笑を向けている。
(こいつ、慣れすぎだろ…)
男の動きは柔軟で、掴みどころがない。
普通の賞金首のほとんどは、卯月の不意うちに無傷はない。
酷ければその場で命はなく、運が良くても軽傷がほとんどだ。
それは日々の訓練と経験によるもので、卯月も自身の腕を信じてきた。
だがこの男はその攻撃をすべて見切り、最低限の動きのみで回避したようだ。
その動きは襲われ慣れた者が体で覚える動き。
卯月とは別の経験による動きと呼べるだろう。
「…っ、あんたが教えてくれるなら、そのマナーとやら教わってもいいけど?」
軽口を叩く卯月の背中には一筋の汗が流れていく。
「別にいいけど、俺の授業料は高いよ」
微笑を浮かべ卯月を見つめる男の表情は、穏やかな笑みの裏に深い闇が見えた。
もう不意うちは通用しない。
それにこの男、卯月の予想していた以上に強い。
「どうしたの?来ないなら俺から教えにいこうか?」
残り僅かになった煙草を地面に捨て踏み消すと、男は冷笑とともに素早く卯月に近づいた。
強すぎる警戒心は時に反応を鈍らせる。
僅かな隙を与えてしまった卯月は、男の持つナイフを避けきれなかった。
本来の狙いであろう、首の頸動脈への攻撃だけは避けられたが、代わりに右肩を切りつけられてしまったようだ。
焼け付くような鋭い痛みは、それが軽傷ではない証拠だろう。
「っ、…ぅ」
肩の痛みは耐えられるが右手に持つ銃に力が入らない。
左でも使えない事はないが、右手より照準が悪くなる。
先ほどの狙いすらも避けられたというのに、左手で倒せるとは思えない。
二撃目は何とか避けられたが、これでは卯月に勝ち目はないと言えるだろう。
(逃げるか?それだけなら出来そうだな…)
背後に僅かな視線をやり逃走経路を確認すると、路地を塞ぐ物は特にない。
上着の内側に隠していたナイフを一本左手に持ち、卯月は隙を狙う。
目の前の男は退屈そうな瞳で卯月を見つめていた。
「君も他の人と同じだね。もう飽きたよ」
そんな男を睨みつけ、茅人は苦笑する。
「飽きたなら見逃してくれないか?俺もそろそろ帰りたいんだ」
近距離で狙うのは男がナイフを持つ右手。
殺傷力は低いが武器を持つ手を攻撃されれば、少しの隙は出来るはずだ。
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