YUKI 2016-11-19 22:11:18 |
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茅人が汐のいるテーブルに近づくと、汐はメモ用紙を茅人に差し出した。
書かれていたのは、茅人が提示した報酬と『本気の恋愛にならない事、本心から相手を恋愛対象に見ない事、期間の延長はしない』という、いくつかの約束。
そして三ヶ月という期間が書かれ、最後に汐の了承するサインと茅人の了承するサインを書く空間が残されていた。
汐は同じ内容のメモ用紙を二枚書いていたらしく、一枚は茅人の物のようだ。
「ここまでする必要があるんですか?」
「念の為よ」
茅人の疑問に、汐はメニューを受け取りながら答える。
手早くサインをしながら茅人は、先ほどの視線について問いただす。
「あの、さっき汐さん僕のこと見てませんでしたか?」
その言葉に汐の肩が揺れる。
言葉こそ発さないが、その仕草から否定するのは無理があるだろう。
「特に意味はないわ」
汐も否定出来ないと思い、素直に肯定した。
「そうですか。忠告しておきますが、よけいな嫉妬はやめてくださいね」
茅人の言葉に汐は反論を投げかける。
「恋愛を知る上で嫉妬心は必要だと思うわ。小説の資料として必要なものよ」
「嫉妬心は仮の恋人に抱くべき感情ではありません。どうしても嫉妬心を学びたいならば、他の方を対象に学んでください」
憤りを滲ませ咬みつく汐に、茅人は冷たい言葉で返す。
茅人は自身の言葉に間違いを感じていない。
仮の恋人は、あくまで恋人のように過ごす関係であり、感情を揺らす本気の恋愛とは違う。
茅人から見た汐は、どこかそのあたりを勘違いしている気がした。
「そうね、私が間違っていたみたいね。ごめんなさい」
「わかってくれたらそれでいいです」
汐の謝罪に茅人は安堵した。
「ねぇ、こんな事を言ったら迷惑かもしれないけど…次のお休み、用事とかあるのかしら」
汐の言葉はどこか不安そうだ。
茅人の怒気の含んだ声におびえているのかもしれない。
茅人自身、汐を怖がらせるつもりではなかったのだが、少し言い過ぎただろうか。
汐の質問に茅人は優しい声で答える。
「特に予定はありませんが、どうしました?」
「デートしたいと思って。ほら、店の中だけでは限界があるじゃない?だから…」
汐の提案に茅人は少し考えを巡らす。
だが数秒後あっさりと茅人は承諾した。
「わかりました。では、朝の十一時、この店の入り口の前でいいですか?」
店の外で客に会うのはどうかと思ったが、茅人の店は一般的な店であり、汐と外で会うことに疚しさはない。
ならば何も問題はないはずだ。
「わかったわ。それじゃ、日曜日、というかまた明日が正しいわね」
「はい、また明日十一時に店の前で」
汐はいそいそと帰り仕度を始め、茅人は会計用レジに向かう。
会計を済まし終えた汐を店の外まで送り、茅人は店内に戻った。
(汐さん、変だったな…)
茅人は先ほど何か思い詰めていた汐を思い、すぐに頭を振る。
茅人が今汐の事を思っても仕方がないし、気のせいかもしれない。
店に入り時計に視線を向けると、仕事が終わるまであと一時間を切っていた。
「よし、働くか」
店内の音に茅人は静かに混ざり重なっていく。
「少し、早く着いたな」
現在、茅人の腕時計が示す時刻は十時五十分。
昨晩の約束を守るため、茅人は店の壁に寄りかかり汐を待つ。
女性を待たすのは失礼に当たるだろうと思い、茅人がこの場に着いたのは五分ほど前。
汐がこの場に着くのはもう少しあとだろう。
(ただ待つのは退屈だな)
茅人が時計から視線を外し、空を見上げる。
今朝の天気予報は晴天で暑くなるとの事だった。
予報の暑さは今のところ間違ってはおらず、茅人の喉に乾きを覚えさせる。
そんな時、茅人の立つ位置から十数歩離れた場所に、自販機を見つけた。
付近を見回すが、汐が来る気配はない。
飲み物を買いに行き、すぐに戻るならさほど時間もかからないだろう。
茅人は足早に自販機に向かった。
(汐さんのも買っておくか…)
暑さの中自販機の飲み物を見つめ財布の中身を確認すると、硬貨は殆どなく紙幣に千円札はない。
それ以外の紙幣はあるので金銭には困らないが、このままでは自販機で飲み物が買えない。
どうするべきかと悩んだ茅人の視線がとらえたのは、この場から少し離れた場所に見える一軒のコーヒーショップだった。
その店は茅人もよく利用している、持ち帰りのドリンク販売もしている店だ。
普段からそれほど込み合わないその店は、店内も落ち着きがありコーヒーの味も美味しい。
汐がコーヒーを飲める事は店で確認済みで、おそらく気に入ってもらえるだろう。
茅人は一度待ち合わせ場所を見つめ、汐が来る気配のない事を確認すると、急いでコーヒーショップへと向かった。
茅人が店内に足を踏み入れると、店内は店の外より僅かに涼しさを感じる。
店内の冷房による微風が、茅人の体を冷ます。
普段の茅人ならこのまま店内で涼むところだが、今日は事情が違う。
運良く店内に人は疎らで、茅人は持ち帰り用のアイスコーヒーを素早く注文する事が出来た。
数分の待ち時間が長い時間に感じる中、店員が二杯のアイスコーヒーをカップに注ぐ。
「お待たせしました、気をつけてお持ち帰りください」
時間を確認する茅人に店の店員は、アイスコーヒーと付属のシロップやミルクを入れた紙袋を手渡し声をかけた。
「ありがとう」
一言店員に礼を言い中身を確認すると、茅人は足早に店を後にした。
店を出た茅人はすぐに時刻を確認した。
時刻は十一時二分前。
急いでも待ち合わせ場所に着く頃には、数分遅れた形になるだろう。
ため息を吐きたい気持ちを内心で押さえ、茅人は足早に目的地へ急ぐ。
右手に抱える紙袋を揺らさないよう速度を上げて歩く。
走ればなお早く着くだろうが、せっかく買ったコーヒーが紙袋の中で悲惨な結果になる可能性がある。
それでは意味がないと茅人は足早に歩く事を選んだ。
遠くに見えていた待ち合わせ場所には、すでに汐の姿があった。
その姿を見つけた瞬間は待たせた事へ何と言って謝るべきかと考えていた茅人だったが、汐の輪郭がはっきりと見えた時、その考えは塵となった。
茅人の瞳に写る汐は、微かな緊張感と憂いの色が見える。
デートに誘われた茅人が緊張感や困惑を浮かべるならまだしも、なぜ誘った側の汐が悲しげな表情をしているのだろうか。
緊張しているだけならばまだわかるが、普通デートに誘いそれが成功したなら、喜んだり嬉しそうだったりする事が多いだろう。
本来の目的である恋愛についての資料も作れるだろうし、茅人には汐の憂いの意図がわからない。
何と声をかければ良いかわからず、茅人は歩みを緩め汐との距離を近づけていく。
あと十数歩という距離で、汐が茅人の存在に気づいた。
こちらに振り向く汐の表情には、既に憂いの色はない。
「お待たせして申し訳ありませんでした。すぐそこの店で買い物をしてきたので…」
言い訳と謝罪を並べ、茅人は紙袋の中からアイスコーヒーを取り出す。
店を出てからの時間が僅かなため、氷の大きさは変わっていないようだ。
「ミルクとガムシロップは入れますか?」
一杯のコーヒーを片手に茅人が問うと、汐は小さく頷いた。
滑らかで透明なシロップと純白色のミルクは、黒に近い液体を淡いカラメル色に変える。
「お待たせしました」
「ありがとう、いただきます」
コーヒーを受け取り、汐は茅人に微笑み礼を言う。
その様子を見つめたあと、茅人も自分のアイスコーヒーにミルクとシロップを混ぜた。
汐より少し遅れて口にしたコーヒーは、少し甘くてほろ苦い。
店の壁を背に隣でコーヒーを味わう汐の表情は、待ち合わせに遅れた茅人への怒りも先ほどの憂いもなく、その冷たい喉越しに嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「ねぇ茅人君、今日の予定、私が決めてもいいかしら?」
半分ほど飲み終えたコーヒーを片手に、汐は微笑み訊ねてきた。
「いいですよ、汐さんの好きな場所で」
予定らしいものを決めかねていた茅人にとって汐の言葉はありがたく思え、優しい笑みで頷く。
茅人の返事を聞き終えた汐は残りのコーヒーを飲み干し、茅人が飲み終え纏めておいたゴミの入った紙袋を掴み、汐が飲み終えた空き容器も入れ辺りを見渡す。
茅人がどうしたのかと聞こうとした瞬間、汐は近くにある公園へ歩みを進めた。
「汐さん?」
茅人の声に気づいていないのか、さらに汐は園内に進み、ごみ箱の中に紙袋を捨てて振り返る。
「捨てる物はいつまでも持っていても邪魔になっちゃうから…、ほら、早く行くわよ?」
汐の声はいつものように明るくて、笑顔も暖かいのに、微かに悲しく聞こえたのは茅人の気のせいなのだろうか。
おそらく気のせいだろう。
なぜなら今日は天気が良くて、汐は笑っていて、こんなにも心地良い気分なのだから。
「まずはどこに行きましょうか?」
公園を立ち去ったあと、街中の遊歩道を歩き、茅人は隣を歩く汐に聞いた。
すると汐は笑顔で返す。
「ここから少し離れたところに、プラネタリウムの施設があるの知ってる?」
汐の言葉に、先週読んだ雑誌の記事を思い出した。
施設が出来てから十数年経つが、林の中にあるその建物の印象は洗練されていてとても素晴らしいと、名前の知らない記者が熱く綴っていた。
でもあの場所はさほど人気のある場所でもなく、女性が喜ぶとは思わないのだが、汐はなぜそんな話をするのだろう。
「知ってますよ、雑誌の記事を読みましたから。汐さんは、プラネタリウムがお好きなんですか?」
茅人の質問に汐は微かな苦笑を携え告げる。
「好きどころかもう、十年以上見に行ってないわ。嫌いな訳じゃないけど、あまり惹かれなくて」
汐の言葉の意味を簡潔に言うならば、汐はもう長らくプラネタリウムに足を運んでいないのだろう。
そしてその理由については茅人の想像を元にした考えだが、汐は人の手で作られた星に魅力を感じないのではないだろうかと茅人は思った。
だがそれならば、何故今日それを見に行くのだろう。
あまり好いていないものを、わざわざ見に行くくらいなら、好きな場所に出かけたほうがずっと有意義だと思えるし、星が見たいなら少し時間を潰してから、夜に郊外に行けば満点の星空が見れるはずだ。
幸い今日は明日の朝まで雲一つない天気らしく、申し分ないはずなのに。
疑問を浮かべる茅人に、汐は楽しげな声をかける。
「わからない、って顔をしているわね。でも、もう少ししたらきっと分かるわよ」
意味を深めた言葉に訝しさを思う茅人は、先導をきって歩く汐の後をゆっくりと追いかけた。
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