風人 2016-04-04 04:41:02 |
通報 |
小説『サイボーグ009 完結編』二巻。
005ジェロニモを主役とし南米を舞台に活躍。
ジェロニモは他の00サイボーグとちがいひとりだと孤高であり文明社会とほとんど交わりがないのが特徴といえる。
また同じ石ノ森原作『仮面ライダーアマゾン』のアマゾンより人生経験深く積み重ねている風。
『009』が『仮面ライダー』以前の作品という歴史もあるし『009』作品完成の経緯に出版社に借金して世界各地を回った経験でしょうね。
これに『009』が持つテーマの反戦という重たいもの。
文明社会と無関係ではいられないのは発展途上国だけでなく未開の少数民族にも影響を与えている。
別作品の小説『仮面ライダーオーズ』の英司の章にも直接間接的ながら部族の生活に大なり小なり影響を与え悲劇をもたらしている。
ただ『009』ジェロニモの章を読むといかに文明人が文明のなかで生きすぎ慣れすぎてることが重く伝わるのもある。
とはいえ文明に慣れすぎてるためにどうしようもないともまたいえる……。一読者としていえば文明に甘んじ逃げもあるかもしれないですね。
小説『サイボーグ009 完結編』二巻の007を主役とした「幽霊劇場」はタイトルだけしか残されてなかった。
初めに読んだ時は生前、石ノ森先生が構想はあったが書けなかったとも思えるが見方を変えれば息子丈氏が俳優、脚本、演出家として活躍なさっているから彼のために遺したとも考えられますね。
後付けや良心的解釈でもありますが、息子丈氏が舞台に精通してる役者でもある。
舞台や役者、その表裏を知る数少ないであろう血縁者。
丈氏は生前の石ノ森先生との会話をテープに残そうとも考えたがあえてしなかった。それは石ノ森先生の魂を削る行為と思ったともある。
これも見方を変えれば役者が“見て聞いておぼえる”行為とも解釈できる……と思う。
あえて記憶や思い出に刻むことで文章にしていく。
実際は当人同士でわからないものはあるでしょう。そこは読者は想像する以外ないのがまことに残念。
小説『サイボーグ009 完結編』二巻、005ジェロニモの章と006張々湖の章。
このふたつの章に共通してるのは南米とチベットと舞台が異なりながら滅びゆく少数民族が示唆しそれが現実であること。
南米は森林伐採や貴重な動物の密猟、少数部族を白人が文化文明による買収、それにより滅びゆく原住民文化や風習。
チベットもまた中国や宗教による争い。目には見えない政治やテロの弾圧など。
張々湖の章はややコメディに書かれていてイメージできる読者には脳内に漫画として投影される雰囲気。だけどコメディの裏にはしっかり“神”の存在を示唆する謎がある。
小説『サイボーグ009 完結編』のジェロニモと張々湖のふたつの章は若干の差異はあるにせよ文明社会から遠く書かれている。
ジェロニモは南米で彼なり少数部族の誇りを持ち自然と共に生きるナチュラルマンとしての生き方、かたや張々湖はひょんなことから中国からチベットに足を向け山に入りここで民族対立や宗教対立など人同士の争いを垣間見ながら自らが求める食の探検をしていく。
小説表現としていえば『009』は各々の章はバラエティに富んでるから一定してない。
張々湖の章もそれが特徴的に表現されている。
ただ再読したら00サイボーグたちは“神”と呼ばれる者たちに導かれて相対するように物語が進行している。
神の側からのコンタクトや“試し”とも……。
小説『サイボーグ009 完結編』張々湖の章。
一見するとコメディやギャグぽく表現されてるが、内容はシリアスかつ哲学的。
チベットに生きる人々の様子を描いてそこにもある滅びゆく民族や文化、宗教対立などを挟みまた張々湖の過去にも触れていく。
00ナンバーのサイボーグ戦士はみな過去に触れてはいる。
張々湖はコメディリリーフな役割は007ブリテンと同様だけど彼の内にも熱く秘めた思いは人として戦士としてあるということ。
雪男イエティとの遭遇も伏線であったことが三巻で明かされる。
小説『密会 アムロとララァ』に続いて『フォウ・ストーリー』を購入。
どちらも基本テレビ版シリーズが元になってますね。
短編小説だけど内容が濃い。
小説『Ζガンダム フォウ・ストーリー』。
ようやく読めたけど悲しい物語。
フォウが香港でカミーユに出会う直前までの物語だけどあまりに切ない。
フォウが戦災孤児という過去、一年戦争の際に記憶を喪失したこと。
ミハル・ラトキエの弟ジル・ラトキエ。
ジルはこんな形で後日談が語られるとも悲劇。
もうひとりいた少女は脱走の末に射殺されるという顛末。
記憶を喪失したフォウもまた悲しいがふたりの少年少女の半生は悲しすぎ(涙)。
あとがきでは著者の遠藤明範氏が小説版『ガンダムΖΖ』を書く経緯に触れられてましたね。
『フォウ・ストーリー』がなければ小説『ガンダムΖΖ』は生まれずまた富野氏からの推薦だったようですね。
遠藤明範氏の著書は『機動戦士ガンダムΖΖ』『真ゲッターロボ対ネオゲッターロボ』『フォウ・ストーリー』でしょうか。
角川スニーカーではそのようで他社はわかりませんが。
この人の特徴のひとつにわかりやすく読みやすい表現。比較的アニメ版に準拠した表現だから作品を知る読者には読みやすい。
『ΖΖ』の物語をたった二巻でまとめる構成力は『真ゲッター対ネオゲッター』でも生かされている。
作品について適度な距離を取ってるスタンスを感じる。思い入れや熱意などはスタッフや出版社などから受け取りながらもけっして過剰な思い入れで作品を書かない。
『ΖΖ』でも地球での戦いを経験しグレミーやハマーンに思いをぶつける主人公ジュドーの言葉は未来を切り開く存在として書かれ『真ゲッター対ネオゲッター』でもゴウが恐竜帝国の未来ある者たちを救うために“ゲッター”に問う。
『フォウ・ストーリー』は残酷な物語ではあるがフォウの成長の物語を書くために彼女にとっては救いある展開とし、読者にとっては残酷な展開としている作家の性格(?)があらわれている。
小説『密会 アムロとララァ』でもレビル将軍はニュータイプらしい素質を見せながらも戦死。
他のガンダム小説に限ったことではないが優秀な人物や好感ある人物は戦場で亡くなる。
ガンダムシリーズに限らないがふつうの小説でも好感ある人物は主人公たちの前から何らかの形でいなくなる。
現実とフィクションがさほど変わらないところはある。フィクションはやや美化されるが現実も“思い出”になると美化されていくからふしぎ。
『未来少年コナン』の小説と『赤毛のアンの世界』という文庫のみ購入。
世界名作劇場の繋がりから『未来少年コナン』はノベライズされたのか?
『赤毛のアンの世界』は私が『アン』よりはプリンスエドワート島が好きで興味あるから購入。
21世紀になっても世紀末思想は人間の意識にあるんでしょうか。
小説『サイボーグ009 完結編』自体は生前に石ノ森先生が二度作ろうとしながら頓挫。亡くなる直前まで息子丈氏に託し完成に至る。
若干、作風を現在の時代に合わせてるためややオリジナルとは異なるにせよ紛れもなく『009』である。
宮崎駿さんが関わった『未来少年コナン』『天空の城ラピュタ』この両作品も一度は何らかの形で世界が滅びたことになってる。『コナン』は劇中の大変動、『ラピュタ』は疫病か何かが流行ったことでラピュタ人はラピュタを放棄し地上に住むことになる。
映画版『トランスフォーマー』もたびたび世界が滅びそうな事態に陥る。もとになったG1アニメが毎週のように地球を危機に陥れてたし(笑)。
小説版『トランスフォーマー』が内容が丁寧。
ブックオフなどで文庫本の棚を見るといろいろなジャンルの本がある。
ダヴィンチやタイタニックなどの考察本だったり趣味や装飾の本など。
だけど世界が不安な情勢だし何かにすがりたい心境はある。人間関係や将来だったり心や精神に救いを求める本もある。
私は『赤毛のアン』関係でプリンスエドワート島関係の本はまれに手にする。
プリンスエドワート島に癒しを求めているかもしれない。
『コードギアス・反逆のルルーシュ』買おうと思ったけどいまはまだ読むの先にしたい。
『ガンダムSEED』と『destiny』は時間かかった。
ガンダムシリーズの小説はこの二作品でかなり間があった。
この後『00』『AGE』『ビルドファイターズ』はすぐだったけど。
若干とまどいある作品は読むのを躊躇うか考える。
『密会 アムロとララァ』『フォウ・ストーリー』『パトレイバーTNG』などはすんなり読める。
『未来少年コナン』『天空の城ラピュタ』『ルパン三世 カリオストロの城』この当時の宮崎駿さんの思想は強大な権力と軍事力に立ち向かう主人公、反戦なんでしょうね。
『コナン』はレプカ、『ルパン三世』はカリオストロ伯爵、『ラピュタ』はムスカ、だけど権力者を倒して物語はラストは平和になる。それは大団円。
だけど現実はそんなことはない。一時の平和でしかない国など多数ある。
『ラピュタ』においてもムスカがいた国は相も変わらず存在しドーラの空賊たちが適度に悪さやちょっかいをして懲らしめるみたいなのが小説版でわずかに書かれていたでしょうか。
『コナン』『カリオストロの城』『ラピュタ』はある意味世界の縮図。
だけど反戦の思想は石ノ森先生の小説『サイボーグ009 完結編』もでしたが本当に倒したのは“悪なのか?”という別な問いかけを生む。
作家や漫画家は常に疑問持ちそれに答えようとする。
小説『未来少年コナン』調べたら四巻構成。
竹書房の世界名作劇場の本が一冊で完結してるのに比べたらちょっと長い。
だけど『未来少年コナン』は古きよきアニメ時代の面影はなにかしらいいものがある。
小説『サイボーグ009 完結編』、それぞれの個々の章のひとりひとり皆何かしらかつての戦いから自分だけの哲学(みたいなの)はあるみたい。
001イワンに限ってはギルモア博士の代弁だけど。
ジェット・リンクは探偵をしながらウェストサイド物語や不良のようにグレながら、フランソワーズはバレエ劇を通してサイボーグとなった自らと架空の劇物語を通し、ハインリッヒは過去と向き合い、ジェロニモは文明社会に侵され破壊されてゆく自然や滅びゆく部族を通し、張々湖は己が求める食を通しチベットにある宗教や国の対立から彼もまた自らの過去と向き合う。
ブリテンの章はフランソワーズの章に似ながらもこちらはバレエではなく演劇や役者という形でブリテンは語る。
9人それぞれにサイボーグに改造された経緯や過去と向き合いながら個々の哲学を持つ。
ブリテンはかつてのブラックゴースト(黒い幽霊団)との戦いをフィクションのように活劇として充実しながらも敵とはいえひとを殺める行為は胸に残っている。
この辺は単純な正義に書いてないのが石ノ森先生と息子丈氏らしさでもある。
“正義”について問う問われるは石ノ森作品は多々ある。
『未来少年コナン』のダイスは憎めない悪役ですね。
当初はラナに憎まれてますけど。ジムシーは比較的に早くに彼女に理解されてる。
コナンの馬鹿力は小説でも遺憾なく発揮されてるの伝わる。
インダストリアの文明人と残され島で育ったコナンの違いもあるんでしょう。
見方を変えればコナンの生き方は自然な人ね生き方かもしれない。
北朝鮮のミサイル発射怖い。
90年代に制作されるもOVAで未完に終わった亡き横山光輝氏の『マーズ』。
この小説版はちゃんと完結で終わってるんだけどマーズの動向、監視人、神体の存在と共に断片的ながらこの作品に北朝鮮もちょこちょこ世界情勢に関わりを持つ。
日本やアメリカが監視人と神体を相手にしてるか最中にも世界情勢が皮肉にも緊張化していく。
『マーズ』はフィクションだけど世界情勢の緊張化は怖い。
学生時代は読書感想文はいやでしたけど大人になったいま本を読むこと多い。
テレビ番組がつまらなかったり元気がないのもあるけど小説や物語、いろいろな考察本やカルチャー本などいろいろ読んでる。
本を読むということが若い頃に形成されてたの実感する。
トピック検索 |