風人 2014-11-27 06:43:01 |
通報 |
小説『Vガンダム』ウッソの初恋はあっけなく終わる・・・・・・。
アニメもですけど彼のやってることはストーカーじみてますから少女であるカテジナからしたらいい気持ちするものでもない。
小説においてはウッソがモビルスーツを操縦できたのが“ニュータイプだから”とばっさり斬りすてる物言い。アニメもでしたっけ。
ただカテジナ側に立てばウッソが疎ましい気持ちになるかもしれませんね。ウッソ君がしたことは初恋であっても少年の気持ちの押しつけでしかないわけですから。
それにふつうの少年などはモビルスーツは操縦できないわけですから。かえって“スペシャルな才能”や部分が生きる上で必要であってもどこか人間的に特に十代の少年にとってアンバランスなの否めない。
カテジナからしたら後々の展開もふくめてふつうの女性のように家庭に入る生き方はできなかった人ではないでしょうか。
クロノクルに対して命の恩人という一面もあったわけだし女性にしたら何らかの形で対等に愛しながら尽くしたい一面もあったんじゃないかな。
『Vガンダム』はいろいろなテーマが内包されてる作品ですから。
『Vガンダム』の小説を再読してると物語が進むたびにウッソくんが不憫に思えてしかたないですね。
なまじベスパの襲撃やマーベットやニュング伯爵たちカミオンが来なかったらふつうに逃げてたら生き延びられただけかもしれなかったのに“戦争”に巻き込まれてゆく。
まだ小説二巻ですけど、シャクティがウッソのような少年が戦うことを不自然に語ることはひどく自然なこと。
伯爵やマーベットさんたちカミオンメンバーがあらためて異常なことのように思えたのは私が大人になったからでしょうか。
『Vガンダム』がそれまでの富野ガンダムと色合いがちがう一面とあるかもしれませんね。
当時のアニメ雑誌では『エヴァ』など他作品にたいして“引き金”になった一因などと記されたこともあるからいろいろ尋常ではなかったかもしれません。
小説『Vガンダム』二巻途中まで読んだけど十代の子達にしてはウッソもシャクティもリガ・ミリティアやザンスカールのことも含めよく理解してると思う。
ただ子供らしくないのはありますね。普通なら戦場や爆撃などが戦争のさなかで起きてるなかタフすぎるというか弱さは人並み程度にあるのにそれを受け入れ克服してしまう“強さ”みたいなもの。
そういう意味ではウッソもシャクティも不自然さやいびつさは見えてしまいます。
他の子供のオデロやウォレン、スージィの方が戦災孤児としてはふつうすぎる。
歳のせいかいろいろな読み方してしまいますね。
『Vガンダム』の小説読むとウッソくんがふつうのしあわせからほど遠い環境に思えます。
カサレリアにベスパとニュング隊が来たことで巻き込まれた形にせよなまじモビルスーツが操縦できることで見込まれ“大人と戦争”に否応なく巻き込まれてしまう。
その都度、生意気な口を聞いて大人たちにしかられなだめられあやされて“子供”の年齢を考えたら不幸にしか思えない。
“ニュータイプ”というだけで物語内の大人は自分たちも納得し納得させながら彼を戦争に巻き込まんでゆく。
いまの現実にいる子供たちももしかしたらウッソくんみたいに複雑な心境が内にあるかもしれないです。
『Vガンダム』の小説再読するとウッソからしたら大人の立場や苦悩はわからないみたいですね。
必ずしも能力と願望が一致するわけでもなく仮に能力があったとしても組織のなかで生かすことの難しさは問われてる。
リガ・ミリティアはゲリラや市民運動という形でザンスカール帝国に対抗することで連邦から曖昧ながら有形無形の支援を受けてる。この辺は『Ζ』のエゥーゴとは異なります。
ゲリラや市民運動という形なら敵ザンスカールの目をくらますこともできてる。
ウッソの父親ハンゲルク・エヴィンが真なるジン・ジャハナムだったことやリガ・ミリティアが味方同士でも知らないことが多いことからハンゲルクはよほど頭が切れるのがうかがえる。
影武者のジン・ジャハナムだって見た目とは異なる一面があるらしいことからリガ・ミリティアに所属する大人たちは一癖ふたくせあったということでしょうか。
『Vガンダム』の小説を再読すると宇宙戦国時代のなかザンスカール帝国のマリア主義とギロチンはひとつの時代の象徴だったんでしょうね。
ジオン公国以来、宇宙世紀の時代はたびたび忘れた頃に戦乱が起きては終息しの繰り返し。そのなかで宇宙移民やコロニーが増えればそのぶん主義や主張も増える。
必ずしも女王マリアがギロチンに賛同してないことやカガチによってアシリア=シャクティが誘拐されたことなど踏まえても彼女とひとりの人間として賛同してない。
ただ小説内では少なくとカガチのいいなりにならざる得なかった過去もある。
けど弟クロノクル、再会したシャクティなどは彼女をひとりの人として接している。過去はどうあれ戦乱のなか生きるためにも。
後のエンジェルハイロゥ作戦で再び苦難や苦悩にさいなまれるのを考えたらマリアは時代を一身に背負う覚悟はどこかにあったかもしれません。
立場や境遇はちがえどリガ・ミリティアの老人や大人たちに似た内に秘めた志はあったかもしれません。ウッソやシャクティに託す未来という意味では同じ。
『Vガンダム』の小説を再読するとクロノクルは比較的に好青年ですね。
冒頭でウッソをモビルスーツから落とそうとしたことだって彼の事情からはリガ・ミリティアを追跡しようとした任務なわけだし大人の事情と言える。
助けたカテジナへの対応も戦争当事者としての一面もあるし彼自身の内の本来の優しさや人間性と取れる。
小説内で書かれた彼や姉のマリアの生い立ちを考えたら彼が作品内で取った行動は善意もある。
シャアやジェリドほど屈折してなかったかもしれませんね。たまたまVガンダムのパイロットがウッソと知らなかったのは不幸中の幸いと言えなくない。
小説内でも数えるほどですが互いに会っている。だけどニュータイプ的な出会いほどでもない程度に触れられてる。
小説だとクロノクルはシャクティやカテジナに比重が置かれてたゆうですからね。
なまじザンスカールに関わらなければ彼はふつうの青年になったかもしれませんね。
『Vガンダム』のカテジナの立場や気持ちからしたら彼女の気持ち考えたらウッソが疎ましかったのはあたりまえかもしれませんね。
少なくと小説版でカテジナは早い段階でウッソにはっきりした気持ちは伝えてるしカテジナの生活や境遇からしたら外見とはちがう内面があっても人間としてはあたりまえ。
彼女は彼女でウーイッグを出たかったわけでもあるし彼女なりに自分の人生を変えたかった一面もあったとうかがえる。
そこにウッソみたいな少年がいてつきまとわれたら疎ましいと思う。
それに彼女は女性であり少女ですから。女性からしたら少年が憧れるのは勝手としてもウッソはやややりすぎ。
カテジナが助けられたリガ・ミリティアを離れたのはなりゆきもありますが彼女にしたらリガ・ミリティアにいるよりはクロノクルやザンスカールにいたことが彼女にとっては人生の道を開くきっかけだったといえる。
カテジナが少女らしくないのはウーイッグや父親でなにかしら外の世界に出たいのに出れない憂鬱な環境などにあったのではないでしょうか。
『ガンダム』『ガイア・ギア』『Vガンダム』の小説は本当に性的な表現が多いこと。
補足的にいえば『イデオン』もですけど。
『ダンバイン』系 の小説を読んでないのが悔やまれる。
富野由悠季さんが男女の性的なものを小説に書くのはそこに未来が含まれるからではないでしょうか。もちろんそれだけではないですが。
『Vガンダム』のオリファーさんとマーベットさんの関係は『イデオン』のベスとカララのリメイクとも取れますし新たな形、新生といえるかもしれない。
また赤ん坊のカルルがウッソとシャクティを自分の新たな父母としても赤ん坊なりに認識してる。
性的ななかに赤ん坊も含まれるわけですから『Vガンダム』はある意味、当時の富野さんが苦悩あるなかの最高傑作だったのではないでしょうか。
小説版を再読すると以前とは認識や感想が変わった感じします。
『Vガンダム』の小説を再読してゆくとウッソくんはたしかに“ニュータイプ”になるようにいびつに育てられてますけどカテジナと人間関係がやや不器用であるのをのぞいたら比較的に中身はふつうな十代と思う。
人間関係が不器用なのはカサレリアのような僻地にいたら人間関係は限られますし幼馴染みはシャクティくらい。
カミオン隊が来るまではオデロ、ウォレン、スージィのような子達とは接してなかったわけですから。宇宙に出てトマーシュやエリシャ達に出会えたことで彼の人間関係は広がり互いに刺激もあったと思います。
カテジナについては思い入れはあったのは否めないですけど・・・・・・。
けど小説内でもシャクティのために行動するウッソくん達は立派ですね。
ザンスカールのコロニーに行くのはオリファーさん達大人が見守る姿勢もまた潔い。
『Vガンダム』、エンジェル・ハイロゥという道具や戦場そのものに民間人を巻き込んだザンスカール、カガチ達の行為は許しがたいです。
小説だと文章で生々しく表現されてるから文章から命が伝わる感じする。エンジェル・ハイロゥにいた民間人たちの命の散り際を見てしまうリガ・ミリティアや連邦軍人たち。
エンジェル・ハイロゥの現象で月のフォン・ブラウンシティが眠りについてしまう現象。
地球を汚染し人類人口増加が“悪”としてもガンダムシリーズの人類粛清はいかなる形も悪い方へ働いてしまう。
なんとも富野ガンダムは小説もやりきれない後味の悪さや考えさせられる読後感がある。
『Vガンダム』はアニメも小説も物語の終わりはほんとうただ終わるだけ・・・・・・。
戦いを終えてカサレリアに戻ったウッソ、シャクティ、フランダース、赤ん坊のカルル。少しだけ年をすぎた主人公たち。
唯一アニメ版ではカテジナだけが罪を背負わされてるけどこれは彼女自身が犯した罪なわけですし。
なにかのアニメ本にありましたけどカテジナさんにもいつか本来の彼女らしい幸せや光りがあればいいと思います。
『Vガンダム』の物語がただ静かに終わるだけというのもいいものと思います。
地球に戻った者達オリファーさんの子を宿したマーベットさん、戦艦から脱出し老人たちに後を託されたニュング隊の生き残りや女の子たち。あるいはエンジェル・ハイロゥの未知なる力で地球圏を脱出した者たち。
そこにもまた未来があったと思いたいですね。
『Gガンダム』の小説を再読中。
『Gガンダム』読むとテレビ版のイメージが強いせいかまるで小説版はイメージが異なる。
あらためて読むとドモン・カッシュが弱いこと。精神面肉体面ともに(それでも格闘家でない一般人よりは強いはずですが)。
小説オリジナルキャラのスキバラ少尉に敗れたりガンダムファイト初戦のチボデーに子供を人質に取られ苦戦する。
小説版ではガンダムファイトの在り方、ガンダムファイトからの影響からの軍事縮小それに伴うカラトら軍事力復活派の思惑、なによりデビルガンダムことアルティメットガンダム開発強奪の真相などテレビ版では描けなかったことを小説版は書いてる。
けどいくつかは富野ガンダムに近い一面もあり小説の東方不敗マスターアジアはある意味逆シャアのシャアのポジションにも取れる。後々、自己矛盾しちゃうのがあまりに気の毒だけど。
地球再生というのもガンダムシリーズのテーマのひとつですし。
小説版独自に流派東方不敗が釈迦の不殺の志を継ぐ格闘技の一派であることや後々、ドモンが自らテレビにおける明鏡止水に通じる悟りを釈迦の弟子たちに教えられる場面など見所はある。
テレビ版のイメージが強いため小説の方はやや地味な印象もありますがこれはこれでありかと思います。
『Gガンダム』の小説はガンダムの名を冠した格闘系の本と言えなくもない。
あくまでドモン達ガンダムファイターは武闘家や格闘家としての一面がテレビより強調されてる。だからふつうに負けるし強くあるためにどうあるべきか精神面も含めて弱さや暗黒面を克服しようとする。
いくら強くても精神面が暗黒面にとらわれたら敵を倒すことができても己の暗黒面にとらわれたら負けるのは確実。
釈迦の教え、不殺というのが全三巻とおして語られてるのが特徴。それがまたデビルガンダムを倒すためのきっかけや鍵にもなってるのも興味深い。
『Gガンダム』の小説を再読すると“ガンダム”の雰囲気あまりしない感じ。
ガンダムの名称や機体はそのままだけど中身は格闘モノ小説。ドモン、チボデー、サイ・サイシー、ジョルジュ、アルゴ、そしてマスターアジア、皆それぞれ格闘家として背景に背負うモノがある。
ある意味、テレビ版より重たい。
格闘家としての真髄とはなんなんのかデビルガンダムやマスターアジア、チボデー達を通じてドモンは敗北のなか知ってゆく。
チボデー達四人もドモンとの戦いのなか負けて敗北し自らの心の傷と向き合いながら戦い立ち直るくだりは燃える。アルゴは明確に書かれてないですが。
デビルガンダム開発の真相がなんといっても読者には驚愕。カッシュ博士とオーギン首相によっての策略、ドモンと地球を巻き込んだ災厄の真実。
ちょっと凄い。
『Gガンダム』の小説はいささか原作アニメから離れた本だけど『ガンダムW』は比較的にアニメのまんま。
『ガンダムW』の平和の在り方はいまの時代から見たら理想論すぎるところはあるかもしれませんね。
ただ物語が進むなかでヒイロたちの迷走、リリーナが導く平和、トレーズとゼクスが下す決断などそれぞれの目指す在り方や戦争に対するガンダムパイロットの目的や決断など中身は深いところはあります。
まだ現実世界から“戦争”が遠かった90年代の時代を考えたら『ガンダムW』はある種の理想でよかったと思われます。
『ガンダムW』の世界観は宇宙に人類が進出しても他のガンダム世界ほど一部を除いて超ハイテクではなく宇宙で生きるのも精一杯な世界観だから。
その辺もまたリアリティあります。
ドラえもんのジャイアン役のたてかべ和也さん亡くなってしまいましたね。
ご冥福をお祈りします。
タイムボカンのCD買って一年と経ってないのに。
タイムボカンシリーズで子どもの頃に笑わせてもらいました。
『ガンダムW』の小説は後半トロワの展開を除いたらおおむねテレビ版に沿ってる形。
ヒイロ達五人のガンダムパイロットと五人のガンダム開発者、トレーズとゼクスの思惑、リリーナ達ヒロインが戦争のなかそれぞれが目指す平和の在り方などが綴られる。
ヒイロ達は“勝利”そのものは目指してない。当初からOZだけを目的にいたずらに地球各地をやむくもに破壊してない。そのことが逆に彼らを苦しめる原因にもなりトレーズやレディ・アン、OZ上層部にも目をつけられる。
トレーズは彼なりに一時的にせよ“支配される平和”で地球や地球圏をおさめるけどガンダムパイロット達が自らを上回る思想の持ち主であるのに気づく。
ゼクスは後にミリアルドを名乗りコロニー親善大使となり地球とコロニーの架け橋になるも時すでに遅くコロニーはトレーズ、果てはOZ上層部の言いなりになってる有り様。
“平和”の中に潜む軍事の影にコロニーの大半は気づいてない。
『ガンダムW』は混迷してる宇宙コロニーの在り方もまた明確に書いてる。
『ガンダムW』の小説を再読中。中盤になるとトレーズやロームフェラ財団がコロニーを連合から解放していくと同時にロームフェラ財団の支配が始まります。
ただし連合とちがうのは“平和目的”を謳いレディ・アンの人格が軍人と聖女にもわかれてしまう。この頃からトレーズとは少しずつ気持ちがズレるのは女性にとっては悲しいことでしょうね。
ガンダムパイロットたちはそれぞれ宇宙に戻り彼らを送り出したドクターJらもOZのなかで表向きは従順に裏では反抗の意志をみせ戦う。
OZに支配されたコロニー住人たちはOZに翻弄されてゆく・・・・・・。
『ガンダムW』の小説の三巻はいろいろ中身が深く書かれてる。
小説のあとがきにもありますがサンクキングダムのリリーナと相反するトレーズの思想が彼が失脚する場面で語られる。
『ガンダムW』の世界でガンダムパイロットたちが戦い続ける理由、トレーズやゼクスが戦争の時代のなか導きだす答え。
小説三巻はそんな意味も含めて内容が深いと思います。
『ガンダムW』小説を再読中ではあるけどヒイロ達ガンダムパイロットは迷走し負け続ける戦いを強いられます。
デュオはOZに潜入したトロワに愛機デスサイズを破壊されカトルくんは父親と姉を失う。
ヒイロはトロワによりOZに捕らえられながら反撃の機会をうかがう。
またトレーズもレディ・アンが自らのためにふたつの心を持った彼女のために悔やみゼクスに助けを願う。
トレーズだけは一貫して自らの立場をほとんど変えてなく“悪”としての信念を貫く潔さはありますね。
ガンダムパイロットもゼクスも立場を変えながら“平和”の在り方を考え見つめる。
SEED以降のガンダムからしたら『W』が理想論な点はあるかもしれませんが戦争も平和もたがいを通してでしか語られないのもまた事実。
『W』においては宇宙に生きる人間たちが厳しいからこそ宇宙に生き死せる人々を通して“命”が語られると思われます。
トピック検索 |